Vol.43

2002.1月1日号

 2002年。明けましておめでとうございます。今年も雑’タウンをよろしくお願いします。
 今日は2002.1.1。平成1411日である。年が明けても何も変わらない、と思いながらも「今年こそは」といろんなことに期待してしまう。困った時の‘神頼み’ではないが、自宅の神棚や神社の境内で「家内安全や世界が平和でありますように」…などと、お願いしている自分がいる。毎年のことではあるが、これはこれで、ひとつの区切りでありけじめであると思っている。
 「神」って何だろう?。80歳を超えた父が元気な一昨年までは、大晦日の午後は風呂に入り体を清めて藁を打ち、しめ縄をなった。息子も手伝った。母と連れ合いは神棚に供える料理を作っていた。そして、神棚を飾り、お供えをして、午後4時ころ家族揃って、神を拝む。お神酒を頂いて食卓を囲み談笑し、ゆく年を懐かしみ来る年を語る。
 一昨年から父が「周りもしめ縄を買って飾る家が増えている。オレも年だからというわけではないが、今風に正月を迎えてもいいよ」と言われ、しめ縄をなうことを止めた。私としては少し淋しかった。昨年も店からしめ縄を買ったが、飾る前に私は風呂に入り体を清めた。息子は手伝うことがなくなってしまった。私と父、私と息子、同じ親子なのだが、ものごとの感じ方がとても違うと、いまさらながら考えてしまう。息子はこのようなことを見ながらどう感じているのだろうか。父が言う「昔は食べ物もろくになかったので、正月と言って、神を祀って人間もご馳走にありついた。神さんに魚(我が家は正月3日は魚のカレーを供えることになっている)を供えるのもオレらが食べられるからなのさ。今は年中正月と同じなのだから…。」豊かになって神(日本流の)は遠のいたかもしれないが、正月は一つの区切りではあるに違いない。
 私たちのふるさとの山「蔵王」。朝夕、蔵王が見えるとホッとする。2002年の元旦の朝、蔵王がくっきり見えた。うれしかった。写真はいつもの場所(四日市場)から午前8時に撮影したものである。下の写真は、中名生の陸橋(阿武隈急行)から撮影した1枚。明るい話題が少ない昨今だが、蔵王を見れると元気がでるし、うれしくなる。できれば2002年は毎日蔵王が見れるような年であってほしいと願う。楽しいことや嬉しいこと、厭なことや辛いことがあっても蔵王はいつもの姿で私を迎えてくれる。