麗しき誤解、または理想としての幻想
もう40年も前のことになろうか、河北新報の、確か夕刊紙上の短いコラム欄に、大池唯雄先生が御自身の子息の通う中学校の校長室に掲げられていた額について書いておられる。 額には「そつ(口へんに卒という漢字であるが表示されないのでひらがなで表示)啄」、あるいは「そつ啄同時」と書かれていた。先生はまず、この言葉を知らなかったと、率直に述べておられる。 コラムは、「そつ啄」について2回にわたり掲載された。2回目は校長から言葉の意味など、教示されたことが書かれていた。 私はこのコラムで「そつ啄」という言葉を知った。もちろん、40年前ではなく、ずっと後になって、大槻良喜先生が作成された大池先生関係のスクラップブックを拝見して、である。 拝見してから20年前後がすでに過ぎ、冒頭述べた事柄も、記憶違いがあるかもしれない。確かなのは大池先生が河北紙上に「そつ啄」という言葉をテーマにコラムを書いたということだけである。 「そつ啄同時」とは、広辞苑によれば「そつ」は鶏の卵がかえるとき、殻の中で雛がつっつく音、「啄」は母親が殻をかみ破ることをいう。このことから、禅宗で師家(しけ− 学徳のある禅僧、とくに座禅の師)と弟子の働きが合致することをいい、さらにのがしたらまたと得がたいよい時期のことだという。 この言葉は、教育関係者の間で、ある理想の状態を示す言葉として愛されているらしい。校長室にあったのもそのためである。 児童生徒に学習意欲をわきたたせ、学ぼうとする意欲を起こったときに、タイミング良く、的確な指導をするということに理解されているらしいのだ。 なるほど、うまいことを言うものだと、先生のコラムを読んでおもった。が、である。本当に親鳥が殻を「かみ破る」ことなどあるのだろうか。 そもそも、「かむ」という行為は歯があってのこと、歯のない鳥がどうやって「かみ破る」のか、とこれは広辞苑の説明に対する疑問で、横道に逸れてしまった。 どうすればこのような映像が撮れるのだろうと、ただただカメラマンの技術(なのか、カメラの性能)に感心するばかりの動物番組を、今、私たちは見ることができる。しかし、それでも「そつ啄同時」を映像で見たことはない。 卵が内側から破られていく映像は何度も見ている。しかし、親が卵を啄むシーンはついぞお目にかかったことがない。成鳥が卵の殻を突っつくことはあるかもしれない。しかし、それは卵を餌にしようとしているのであって、雛がかえるのを助ける行為ではない。 結局、「そつ啄同時」とは自然界ではありえないことなのに、一つの理想を夢想した人間の、幻想の所産なのではあるまいか。鳥類学者にうかがいたいところである。 思えば人間は、その愚かな行動を反省するためであろうか、動物界にさまざまな幻想を作り上げてきた。 「鴛鴦の契」という。おしどりのつがいはいつも一緒であることから、夫婦仲の睦まじいことの喩えとして、結婚式場で人気のフレーズである。 しかし、鳥に詳しい人によれば、おしどりが同じパートナーと一緒にいるのは一年だけ。一年だけは仲睦まじく同じパートナーと過ごす。しかし、翌年は決して同じ相手とペアリングすることはないという。つまり、「鴛鴦の契」とは「一年限りの夫婦関係」というのが自然界の現実であるらしいのだ。 このことを、柴田町の福祉劇団「鶴亀」の怪優菊地真一さんに話したところ、「竹を割ったような性格」というが、一年中ダラダラしまりなく葉っぱを落すので竹ほど始末の悪いものはない、と返してきた。 戦争する人間、殺し合う人間に、野獣よりも劣ると猛省を促すためだったのだろうか、同種で殺し合うのは人間だけ、獣をはじめ、自然界では傷つけあうことはあっても、決して殺しあうことはない、というようなことが言われたことがあった。 しかし、動物界の生態の研究が進むにつれて、それは人間が作り上げた幻想であることが次第に明らかになってきた。例えば、牡のライオンは子持ちの牝と交尾するため、子供のライオンを殺すという。牝ライオンは子供がいるうちは発情しない。牝の発情を促すために、牡は子供のライオンを殺すのだという。 自然界ではこうした例はライオンに限ったことではないらしい。 幼子を抱えた女性が、幼子の父親以外の男性と同棲するようになって、同棲相手の男性が幼児を虐待したあげく、殺害してしまうというニュースが続く。こうしたニュースを耳にするたび、人は野獣に近づきつつあるのだろうかと思ってしまう。 一つ違いがあるとすれば、人は子供に手がかかるうちは発情しないというメカニズムはとうの昔に失ってしまったことである。 そして、これは私の幻想なのかもしれないが、牝ライオンが子供を殺すことに加わることはないが、人は往々にして同棲相手の虐待殺害行為に参画する。 |