小室日記のなかの70年前
絵画は誰が描いた何の絵と、第一に作者に関心が向くのに対し、彫刻は(展覧会出品の作品を除けば)先ず誰を、すなわちモデルに関心があつまり、ややもすると作者はないがしろにされがちである。
仙台城址に立つ「伊達政宗卿騎馬像」しかり、である。「小室達」作ということを、はっきり認識している観光客はどれくらいいるか。おそらく、はなはだお寒いものであろう。 この秋の企画展示のテーマとして何度目かの「小室達」展を準備している。タイトルは「70年前の柴田、宮城、東京…日本 −1931st,in the Diary of Komuro Tohoru」。 今回の展示はこれまでのものと全く違うものとなるはずである。「全く違う切り口」について述べる前に、蛇足かも知れないが、人名辞典風に小室を紹介しておこう。 小室達は明治32年、柴田郡槻木村大字入間田(現 柴田町大字入間田)に生まれた。早くから彫刻に才をみせ、白石中学校を経て東京美術学校(現 東京芸術大学)彫刻科に進学、さらに同校研究科に進み、朝倉文夫に師事した。在学中の大正13年、第5回帝展に「曙光」を出品、初入選をはたした。翌年出品の「構想」は特選となり、翌年からは無鑑査となった。 白中同窓生達の友情に支えられ、実績を重ね、伊達政宗300年祭の記念事業の一つとして進められていた銅像の制作を依頼され、昭和10年、騎馬像を完成させた。太平洋戦争は小室等彫刻家から制作の場を奪った。小室が失ったのは制作の場だけではなかった。長女と畏敬する美校の先輩安藤照を空爆で失い、小室自身も健康を蝕まれつつあった。長い戦争が敗戦というかたちで終結し、復興への努力が続けられるなか、芸術の世界でも、徐々に展覧会が復活し、また新たな運動もみられるようになった。 戦前の小室の仕事が人々の記憶に甦り、小室自身も戦後の開放された空気を作品に活かすべく研鑽を積んでいた矢先、病に倒れたのである。昭和28年6月没、53歳。 この53年の生涯で「得意」の時とは、小室達にとって、何時であったか。「構想」か帝展で特選となり、無鑑査作家に列した時であったか。はたまた「伊達政宗卿騎馬像」制作の時であったか。いずれの時も得意絶頂の時で、まさに彫塑界に小室あり、を実感していた時期であったことは疑いのないところである。 では、小室が生涯で最も燃えた時期は何時であったか。一つの候補として1931年、昭和6年を提案したい。以下、その理由を述べる。 昭和3年秋、日本の彫刻界に衝撃が走った。斯界に一大勢力を形成していた朝倉文夫の門下生が、帝展出品を拒否したのである。蠢動は、すでにこの年の春に始まっていた。帝展の審査員として4名いた門下生が、安藤照1名に減らされたのである。 これでは納得のいく評価は期しがたいと、門下生の間に動揺がひろがっていた。その背景に朝倉と同じく美校教授であった北村西望との間にあった学生の指導法をめぐる確執があった。 しかし、事態はそれだけにとどまらなかった。帝展への出品を拒否した門下生たちが、今度は朝倉に対して反旗を翻し朝倉塾を脱退したのである。理由は必ずしも明らかではない。出展拒否という実力行使にでた弟子たちの処遇について何等具体策を示さなかったことへの不満があったもののようであるが、長い間に積りに積もった師への不満が、拒否騒動に対する朝倉の対応を引き金として爆発したもののようである。 では、どのような不満があったのか。 朝倉の作品はきわめて写実的である。美校教授という肩書と写実性とが相俟って著名人をモデルにした作品も多い。制作料も高額なものとなったろう。それが、小室たちには拝金主義とうつったもののようである。結果、その優れた写実性に芸術性を見い出しえなくなっていた。 小室の日記には論理的に記述した批判や原因、理由などは見えないが、断片的な記事から、以上のような想像ができるのである。 脱退した小室たちは、安藤照をリーダーとして槐人社を結成し、芸術論や彫塑論を語り、就中、彫刻における写実性について語り合っている。 美校教授という権威、彫塑界における不動の地位、これに対して反旗を上げたのであるから、気分は嫌が上にも高揚したことであろう。師を超えるものを、という思いも強かったであろう。 日記のなかの日常の細々した雑事に、そうした小室の昂ぶりを見い出すことは容易ではない。しかし、安藤邸で毎月開催された槐人社の例会にほとんど無欠席、しかも定められた時刻より早く着き、待ちくたびれることも一再ならずあったことをみても、槐人社に対する思いの強さが推し量れよう。 6年3月22日から始まった第1回槐人社展に小室はモーニング着用で出席した。しかも、出品作品のひとつ、「春日夢」には「第1回槐人社展」云々と陰刻がある。出品展覧会名を刻しているのは、現存している作品としては唯一のものである。 作品に昇華する想念、その制作によりそう日常的な、あまりに日常的な日記のなかの小室の日々。小室の息遣いを日記を通して紹介したいと思ったのである。 副題 1931st,in the Diary of Komuro Tohoru のほうが展示の中身に添っていると思う。当時は、いまだ戦争の影も薄く、思想的にも自由で、制作に必要な資材面での制約もなく、郷里との交流も活発であった。さらに、日記ならではの世相がみえるのである。 【お詫び】以前、「永福寺界隈」のなかで、国木田独歩には1男3女があり、長男を虎男といい、近所にアトリエを構えた佐土哲二も独歩の息子、とすれば虎男と哲二は同じ人物?などと曖昧なことを書いてしまった。 中川画伯の文章に「独歩第二子」とあったのは、次男という意味である。独歩は明治41年6月に亡くなり、哲二が生まれたのは同年の9月。このため、独歩年譜には哲二の誕生が抜けていることがままある。 |