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フィクションとしての伊達騒動3

 亡くなったIさんの姿を見かけると、正直、姿を隠したくなった。こちらにやましいことがあったからではない。ほとんど難くせとしか思えないような事柄について、2時間も3時間もつきあわされされるのを避けたいと思うからである。
 実際、午前11時頃につかまって、午後3時過ぎにお引取りいただいたという愚痴を先輩から聞かされたことがある。
 それでもIさんの良いところは、「難くせ」を直接本人でなく、言いにくることである。少なくとも私自身が何らかのミスを犯して(例えば町の広報紙に書いた記事に間違いがあったなどということで)何時間もしぼられるというようなことはなかった。
 Iさんが「難くせ」をつけてきたことで忘れられないことがある。K課長が公民館勤務だった時に作成した町内史跡巡りの資料が、幸か不幸か、Iさんの目にとまった。
 それは、『柴田郡誌』の次の一節をそのまま引用したものだった。
  寶生山徳成寺 中名生にあり、曹洞宗であって、仙臺市松音寺の末寺と。傳へ云ふ  御西院天皇寛文二年明藝和尚の開山であると。今の伽藍は明治十八年炎上、同24  年の再建である。
 Iさんは、この文章に二つの点で認めがたいものがあると感じた。
 第1点は徳成寺の御住職や壇徒の皆さんには誠に失礼な話なのだが、徳成寺ほどの小さな寺が松音寺ほどの大寺院の末寺であるはずがない、というのである。徳成寺に赴きそのように言ってきたとも言うのである。御住職も辟易したことであろう。
 2番目は「御西院天皇」である。Iさんは言った、学習院の児玉幸太先生が書いた本を見ても院はついていない、と。
 彼は私の知識をはかろうとしていたのだろうか。このことを思い出すたびに、そんな思いに駆られる。
 確かに、児玉先生の本に限らず、現在発行されている本で、院の付いているものを見つけるのは難しい。
 答えは肥後和男編『歴代天皇紀』に見ることができる。少々長い引用になるが、お許しいただきたい。
 (後西)天皇は貞享二年(一六八五)二月二十二日に崩御、後西院と追号されたが、それは第五三代淳和天皇が皇兄嵯峨天皇より受禅、在位十年で仁明天皇(嵯峨皇子)に譲位したのと境遇が似ているという点より、淳和天皇の別称を西院と申したのに対し、後の字を加えたものといわれている。
 西院天皇は第111代、第110代は兄の後光明天皇、第112代は弟の霊元天皇であるが、霊元天皇は後光明天皇の御猶子(養子)であったため、「境遇が似ている」ということになるのである。
 問題はこれからである。
  大正十三年(一九二四)宮内省に設置の御歴代史実考査委員会で、天皇の尊号はすべて何々院という追号の院の字を省き、何天皇と呼ぶことに決定したのに伴って、後西天皇と呼ぶことに定まり(大正十四年)、大正十五年(一九二六)以来は後西院天皇とはいわないことになった。しかしじつはこれは誤りで、西院帝に後の字を冠して後西院と呼ぶことに貞享二年二月二十九日決定されたのであるから、院の字をとってはならないのである。後西院天皇と申すべきであると思う。
 『柴田郡誌』の発行は大正14年、まさに尊号が後西院から後西に変わろうとする時期であった。Iさんは当時、十代の後半か、二十代の前半であったろうから、変わったというニュースを記憶していたかも知れない。
 しかし、Iさんはもっと基本的な間違いを指摘することはなかった。郡誌には「御西院天皇」とあるが、このような号はありえないのである、と。
 ともあれ、彼の「難くせ」がきっかけとなって、伊達騒動に微妙な影を落す「後西院天皇」の存在を知ることになり、綱宗蟄居の一つの説にいきあたったのである。
 『樅ノ木は残った』では、原田甲斐が最後の望みを掛けたのが、この天皇の周旋であった。しかし、後西天皇もまた綱宗同様、幕府からは疎まれており、とても幕府に対して政治的働きかけができるような立場にはなかった。
 案の定、甲斐の最後の切り札は無力であった。この天皇の周旋は、小説全体からみれば、とって付けたように現われ、重要なものではないが、甲斐の情勢分析の甘さにみえてしまい、不要だったのではと思ってしまう。