NO-26

フィクションとしての伊達騒動2 

  −本当のところ、どうなの?
なんとか予定の期日通りの開会することのできた今回の企画展「虚構のなかの伊達騒動」を振り返っての四方山話に、スタッフのひとりが叫んだ。
−本当のことを知ろうとすることがどだい無理。オレはそんなこと、端から思わない。「本当のこと」とは、言い替えれば「各人の落ち着き所」なのである。少なくとも寛文事件に関しては、それが私の答えである。
 それが歴史を学ぶものの言いようかとお叱りをいただくかもしれないが、私のこの事件に対するスタンスはこうである。
 まず、史実を確認する作業がある。これは一朝一夕には終わらないだろう。仮に終わったとしても、それは「私自身の落ち着き所」だと思う。
 もう一つには、「着せ替え遊び」がある。
 今回の展示で、想像以上に多くの人々が寛文事件について書いていることがわかった。そのすべてに眼を通すことができたわけではないが、読み進むなかで得た結論が「着せ替え遊び」である。
 主な登場人物はそれほど多くはない。列記すれば、原田甲斐、酒井雅楽頭(これに老中が加わることもある)、伊達安芸、伊達兵部がその主なものである。これらの人物に、着物ならぬキャラクターを着せるのである。キャラクターはそう多くはない。忠臣、逆臣、陰謀家、小心者、能吏、付和雷同、ざっとこれくらいのものを用意して、登場人物に着せるときに多少グラデーションをつけて味付けする。
 背景は2枚もあれば十分。1枚は幕府の大名取潰し政策で、要はこれを使うか使わないかで、使わない場合は仙台藩分割論か、別の書き割りを使うかである。
 これまで発表された寛文事件の図書がどれに当てはまるかを調べ、これまでにない組合せを探しだせば、新たな「伊達騒動論」が可能になるはずである。
 ふざけているとお叱りをうけるかもしれないが、これもれっきとした小説の方法論の一つなのである。亡くなった小説家の辻邦生であったと思う、西洋の占いカードの組合せで幾通りものストーリーを作り出すことができる、と語ったのは。
 今回の企画展は「着せ替え遊び」を提唱するものなのだが、それぞれの作品の、登場人物のキャラクターを紹介できず、この点、中途半端なものとなった。
 ともあれ、私は伊達騒動について、先人たちの「着せ替え遊び」を楽しんでいる。
 そうはいっても、事件について多少は勉強しているのだろうから、それを話してみろと言われるかもしれないが、私の場合、入り口で立ち止まってしまう。
 伊達騒動の最大の謎はなにか。これも人によって違うのであるが、私は綱宗逼塞が最大の謎であると思う。「逼塞」とは要するに軟禁状態ということである。綱宗の場合、それが生涯にわたったのである。どんな罪を犯したのか。大酒呑みで吉原通いが目にあまった、要するに、行跡宜しからざるをもって終身軟禁とされたのである。こうしたことが原因で引退させられた、首になったというのなら現代にも通じることである。
 しかし、これが原因で終身軟禁となると、現代の感覚では理解を越える。
 仙台藩が小石川堀の浚渫工事を命じられたのが、万治3年(1660)2月。命を受けて、
3月綱宗は江戸に戻り、工事現場に立つ。5月、親戚の大名池田光政と立花忠茂が綱宗の行状について相談したという記録がある。わずか2ヵ月である。
 酒癖の悪さ、吉原通いなどが罪に問われるとすれば、それは積み重ねであろう。2ヵ月という歳月が長いのか、短いのか、それは主観が入るので決めかねるが、逆に、2ヵ月で終身刑になるような酒の呑み方、女狂いとは如何なるものか、知りたいところである。
 終身刑の理由としては疑問がある。明確に表現できない理由であるから一種道徳的な理由にしたのではないか、と考えるべきではないのか。
 明確に表現できない理由とはなにか。最も考えられるのは権力の中枢に関わる事柄であるため、あからさまに表現できなかったということである。
 それでは、その理由とは具体的にはなにか。
 綱宗の母は貝姫といい、京の商家の娘ということであったが、今際の言葉に、実は公家櫛笥隆致の娘あるとのことであった。とすれば、後水尾天皇に仕えた逢春門院隆子の妹ということになる。逢春門院隆子は後西天皇の母親。親が姉妹ということは、綱宗と後西天皇は従兄弟ということになる。
 三代将軍家光の時代は、幕府と朝廷との緊張が一つのピークに達していた。後水尾天皇は幕府の対朝廷策に抗議して退位している。大名も京都との関係は神経質にならざるをえなかった。そんななかで、藩主が天皇の従弟ということが幕府に知れたら。事が公になる前に、この関係を封印しなければ。知れたら知れたでしかたがない、封印することで藩としての態度をアピールする必要がある。結果、生涯逼塞ということになる。
 仙台藩主が発給した領知状は4代綱村の代に黒印状から朱印状に変わる。その綱村の朱印に「伊達正統第十九世」というものがある。
 政宗は朝宗から数えて17世であるから、4代綱村は二十世でなければならない。現に5代吉村は「伊達氏第二十壱世藤原吉村」という朱印を使っている。このことは、一時的にしろ、仙台藩内に綱宗が藩主であったこと自体を抹殺しようとした空気があったのではないかと考えさせられる(おそらく、この朱印については既に何らかの定説があるのかもしれない。御教示を待ちたい)。
 こうしてみると、綱宗の存在そのものが、朝廷とのあまりに近い関係であったがために、抹殺されるべき運命であった。
 ちなみに、伊沢元彦『ダビデの星の暗号』では、従兄の後西天皇もまた生きながら、あたかも死者の扱いをうけたとしている。具体的には……、読んでみてください。
 ところが、貝姫の名は櫛笥隆致家の系図にはない、もともと商家の出であった貝姫が産んだ男子が藩主となったため、然るべき家柄をと考え、(おそらく、金を積んで)櫛笥
家の系図の中に入れたのだという説がある。
 私の思考はここでぐるぐる廻って先に進まないのである。