フィクションとしての伊達騒動
昭和45年、「樅ノ木は残った」がNHK大河ドラマとして放映された。学生だった私の部屋にもちろんTVはなく、帰省時に何度か見たかも知れないという、甚だ頼りない記憶しかない。そもそも、我が家で大河ドラマにチャンネルを合わせる習慣などなかったのではなかったか。
もっと大河ドラマについて言えば、学生の間で話題となることが、そもそもなかった。したがって、自分の郷里が舞台になっていることで、小鼻をぴくつかせることもなかった。思うのだが、当時の私は船岡を郷里と認識していたのだろうか。柴田町といわず、槻木出身と自己紹介していたように思う。 横道に逸れた。 私は伊達騒動になにがしかの関心があったのだろうか。記憶をたどれば、小学5年生の時、松島の警察署に転勤となった伯父の家に泊まりに行って、高城の映画館で見た映画が伊達騒動だったのではないかと思うが、確かめていない。血刀さげた侍(確か月形龍之介)が衝立を押し退けて登場するシーンだけが記憶に残っている。日経に連載していた「樅ノ木は残った」が評判になりだしたころのことである。 次の記憶は、後にわかったことなのだが、松竹歌舞伎が実川延若の原田甲斐で制作した「樅ノ木は残った」である。モノクロのTV作品で、夕方実家で見た記憶がある。大河ドラマ前年のことなのか、あるいはもっと前なのかはっきりしない。 大池唯雄はこの番組が放映されて船岡の館山を訪れる人が増えつつあること、「原田甲斐は忠臣だったんですね」と聞かれて困惑したこと(大池は後にこの困惑を山本にぶつけている)、そして時代考証がまったくでたらめなことなどを新聞に寄稿している。 樅の木の下の山本の文学碑が除幕される数日前に、友人を案内したことがある。ということは、まったく大河ドラマを意識していなかったわけではなかったということか。 伊達騒動、というより原田甲斐を郷里の人物と意識するようになるのは郷土史に関わる仕事についてからであったように思う。資料館である思源閣が開館して、いずれこの伊達騒動をテーマに企画しなければならないという思いがあった。 古書店の目録を見て、届く範囲の古書を買ったり、伊達騒動をテーマにした図書を購入するなどしているうちに、自ずと展示の方向が見えてきたように思えた。それがはっきりしたのは、仙台郷土研究の渡邊洋一さんが、同会誌に発表した「『実録体小説−伊達騒動物−』についての一考察」を読んでからであった。 渡邊さんは、伊達騒動に関する著作物の多くが江戸時代に書かれた実録体小説から脱却できない、としている。実録体小説とは「大体は大小様々な事件等を主題、または背景として構成されるストーリーを有するもので、主要人物は実名で登場する」ため、ごく最近まで歴史書として扱われてきた。しかし、「登場人物の行動や思想には必ずしも事実と異なる事が多いことから」現在は「文学」に分類される。 歴史を学ぶものとしては、当然、なにが真実なのか、本当はどうだったのかを知るべく努める責務があるとは思うが、こと伊達騒動に限っては徒労に近いものを感じる。その大きな要因として前述の実録体小説の存在がある。 大きな嘘を真実と思い込ませるためには小さな事実の積み重ねが必要であると言ったのは、確か三島由紀夫だった。実録体小説はまさに三島の説を忠実になぞった観のある存在なのである。明治以降に書かれた作品が、多い少ないはあっても実録体小説、ないしは実録体小説をもとに書かれたものに拠っている。 腑分けして、そのすべての器官の組織検査を迫られるような思いをいだかせること、そして検査に必要な標本たる「実録体小説」もまた腑分け、組織検査の必要性を感じさせるのである。そこに徒労感を抱くのは実録体小説にそれをするだけの価値があるのだろうかという懐疑があるからにちがいない。事実、かつて資料採訪先で何度か『伊達顕秘録』に類する写本を目にしたことがあるが、ほとんど意に介さなかった。今は勿体ないことをしたと思うが、目の前に出されたとして、すべてに目を通す気力があるかと言えば、自信がない。 こうして、自らを袋小路に追い込んでしまうと、いっそ虚構を楽しんでしまおうという気持ちになってしまう。騒動を扱った数多の作者たちが、騒動の何に関心をもったのか。今、私はその作者たちの関心事を楽しんでいる。 |