NO-23

小室達作品についての話題二つ
 
 《話題1》 一昨年、いくつかの偶然が重なって、白石の飯沼さんから小室達の作品「保食神」の石膏原型を郷土館にご寄贈いただくことができ、また、木像「保食神」の所在も判明した。以下も、小室作品に関する、ちょっとした偶然のお話。
 昨年の11月3日、すでに外は暗く、妻が実家に帰っていて、そろそろ夕食の支度をと、ビールに手を伸ばし、TVをつけた。ミヤギテレビ「Oh!バンデス」が現われた。祝日だから見ることができる番組である。
 番組は仙台市の郊外でレポーターが身近な話題を紹介するコーナーであった。レポーターは、とある酒屋さんの居間(であったか、店先であったか、不確かなのだが)にお邪魔していた。曰く、持ち主の心当たりの方がいたら、連絡がほしい、と。
 映し出されたのは、少女の、両肩を削ぎ落した胸像であった。件のブロンズ像が、この鈴木さんとおっしゃる酒屋さんの家にあるいわれが、レポーターによって説明された。鈴木さんの父親が、終戦間もない昭和21年か22年ごろ、現在の定禅寺通りの、一番町から市役所方向に渡る横断歩道の中央付近で、地面から頭部が出ているのを見つけた。父親はこれを掘り出して持ち帰った。そして、半世紀が経った。父親から聞いたブロンズ像のいわれを思い出すにつけても、なんとか50数年前の持ち主にお返ししたいという思いが強くなった。
 仙台空襲で焼けだされた屋敷にあったものであろうから、屋敷の持ち主がわかれば、自ずとブロンズ像の持ち主も判明するのではないかと思った。
 それはあまり難しいことではないはず、だから、私の関心は像の制作者にあった。
 右肩の、削ぎ落された面に印章が陰刻されており、ズームアップされた。あまりはっきりしないが、四隅に丸みを付け「とほる作」という文字をデザインした見覚えのある小室の印章だ。
 作家を知りたいのではなく、持ち主なのだから、私がしゃしゃりでることではないと思った。しかし、鈴木さんとコンタクトをとることも無駄なことではないと思い直して番組の電話番号を控えた。
 番組の電話受付嬢は番組を見ているわけではないので「先程番組の中で」といってもチンプンカンプン、埒が明かない。止むなく104でミヤギテレビの番号を調べて電話をした。「番組は別の所で」と言う局の人に、事情を話し、それでも埒は明かず、教えられた(つまり、私がTVを見てメモした)番号に再び電話。反応は同じだったが、予め反応が想像できたからか、あるいは彼女のキャラクターのせいか、多少話が通じ、鈴木さんの電話番号を知ることができ、鈴木さんとお話することができた。
 しばらくして、番組のディレクターと思われる人物から電話が来た。鈴木さんが番組に電話したためらしい。
 6日、そのディレクター氏が取材に来館するというので、作品台帳を繰ると「女人像」というタイトルが付されて、町内某家蔵とあった。製作年代は不明とある。根拠の無い想像であるが、昭和6年、第1回槐人社展に出品した作品のひとつではないかと思った。この展覧会に小室は作品5点を出品している。唯一の大理石作品「まどろみ」(秋保温泉岩沼屋ホテルのロビーにある)同名の石膏像(所在不明)、同じく石膏像「春日夢」(原型、ブロンズ像とも郷土館)「リヽ子の肖像」(所在不明)、そして「福女」と題された小品(同前)の5点である。ちなみに「福女」とは「まどろみ」「春日夢」のモデル「福ちゃん」のことである。
 「女人像」(と、おそらく仮題された)は複数ブロンズ化されて、求めに応じたものと思われる。
 第1回槐人社展に出品した作品のなかで、ブロンズ化して、「商品」となりうるものを探すとなると「福女」が挙げられる。「リヽ子の肖像」のリヽ子は小室の長女で、まだ五歳くらいである。
 「女人像」を第1回槐人社展出品作品のなかにもとめなければならない根拠はない。「根拠の無い想像」たるゆえんである。
 《話題2》 今年の1月の末であったか、2月の初めであったか、伊達政宗の騎馬像の石膏原型を見たいという電話があった。あいにく、いくつかに分けて梱包してあるので、簡単には見ることができないので応えられないと言うと、日記があって、それをみると制作過程がわかるそうだが、見せてもらえないかと言う。日記を見せることはできないが、制作に関する記事を抜粋してなら、と答えた。騎馬像の制作過程をまとめたいので、近いうちお邪魔したいといって電話は切れた。
 少しく騎馬像について調べが進んでいる人との印象であったが、さりとて専門の研究者とも違うようにも思えた。
 うかがった名前も忘れかけた(尤も最近はすぐ忘れるのだが)2月末の昼休み、熱心な観覧者があった。私に面会したいと言って展示室に入ったという。名前を告げられたが、見事に思い出せない。用向きを聞いて電話のことを思い出した。
 この人を仮りにD氏と呼ぼう。氏によれば、D氏夫人の母親の父親(だったか、叔父)にあたる方が伊達政宗の騎馬像を鋳造したと聞いている。秋田出身の伊藤という名前なのだが、そのことを確かめたいのだという。氏の義母にあたる方も90歳を越え、目も次第に弱くなってきているので、なんとか元気なうちに、鋳造の経緯をまとめて見せてやりたい、それがD氏来館の目的だった。そして、氏はセピア色の一枚の台紙付の写真を見せてくれた。鋳造所の庭で撮影されたのであろう。写っているのは伊藤さんの一族だ。中で最も背の高い人が伊藤さんだという。背後には伊達政宗のブロンズ騎馬像。
 小室は、伊達政宗像の制作を依頼されたことを、旧仙台藩に生まれたものとして生涯の誉れと感じた。そして、鋳造を担当した秋田生まれの伊藤さんも同じく一世一代の名誉と感じ、一族を呼んだのだろう。
 柴田町で小室作品のブロンズ化を依頼したのは三浦鋳造所である。騎馬像鋳造中の写真には三浦鋳造所の先代も写っており、現在天守台にある騎馬像(二代目)はこの方が鋳造したものである。
 初代騎馬像の鋳造所は思い出せなかったので、小玉君に電話して聞いてみた。「秋田出身の伊藤和助」という名が澱みなく、小玉君の口から出た。それをそのまま告げると、一瞬、件の写真を押し戴いて「あー、やっとつながりました」と呟いた。
 D氏の感動は私にも伝染した。抜き書きを作ることを約束して別れた。