踏み込んだ迷宮
年末年始の休暇に入った最初の日であったか、故斎藤博先生の奥様小島幸枝先生からご本が届いた。小島先生は斎藤先生と同じ獨協大学の教授である。しかし、それ以上のことは何も知らなかった。
届いた包には本が2冊入っていた。1冊は斎藤ゼミで提出されたレポートなどを中心に纏めたもので、見覚えがあった。そして、互いに誤解というか、誤った思い込みがあったことに直ぐ気付いた。 納骨式後の昼食会でのスピーチや卒業生の方との話で、柴田町の役場文書を使ってレポートや卒論を書いたということを聞いた。私は役場文書と聞いて、斎藤先生の、かの伝説の文書をいうのだろうと理解した。しかし、学生が編纂室に来たことはないから、先生が資料採訪されたものを使ったのだと思っていた。それを纏めたものがあるという。それは、私は見ていないので、小島先生から送っていただけることになっていた。 開いてみて、かの日「役場文書」と呼ばれたものが、正しくは(私のいわゆる)「日下歳男文書」であることがわかった。 『柴田町史』資料篇Vは日下歳男氏の曽祖父徳右衛門(後に徳太郎)が、ほぼ明治時代全期を通してメモし続けた膨大な「御用留」のなかから、プライバシーに関わるものなどを除いて1冊に纏めたものであるが、読み終わった段階で未解読の部分が残っていることが問題になった。短時間でこれに応えていただけるためには組織が必要だということになり斎藤先生(あるいは、斎藤ゼミ)にお願いにすることになったのである。 確かに、公文書を書き写したものが中心の綴りではあったが、私に役場文書という認識はなかった。 もう1冊は、小島先生御自身のご本であった。『圏外の精神−ユマニスト亀井孝の物語』とある。亀井孝という名は微かに記憶があった。この人物の著作物を持っているのか、本屋の書棚で見ているのか、新聞の広告で見たか、思い出せなかった。 解決しないまま、巻末の「著者紹介」を開いた。上智大学大学院を卒業、専攻は国語学、キリシタン学とあり、キリシタン文献の著書名が並ぶ。 そして、驚いた。 著書の中に『コリャーデ西日辞書』とあり、共著で臨川書房刊とある。この本こそ、いや、本欄前々々回「古書店にて」で紹介した『西日辞書』の著者こそが小島先生だったのである。 翌日、正月になるので子供たちに会いに行った折に(わが家では、子供の正月帰省はなく、親が出向く)、娘に小島先生の講義は受けたことがあるか聞いてみた。1年の時受講した、自分の苗字についてにリポートを書いた、という返事。電話で参考書を聞いてきて、コピーを送ったことを思い出した。 展示資料の借用のため上京した際、先生の名を確かめるべく古書店に足を向けたが、前月私が手にした本は見つからなかった。 後日、送っていただいたご本の遅れたお礼を兼ねてお電話を差し上げ、「著者紹介」を拝見した時の興奮を伝えた。Faxicuraをファシクラと読むことの間違いを学問的に説明したいと思い、先生(が専攻する学問を専攻する人−は略して)を探していました、と。 なぜ、支倉常長はHaxicuraと署名しなかったか。ラテン系の言語ではHは発音しない。ためにHaxicuraと書けば、ハシクラとは読まずアシクラとなる。このことは私にも容易に理解できた。Hotel はフランス語読みではオーテルと発音する、という程度の知識はある。しかし、電話では、そして恐らく手紙でも、納得できる答えは難しいように思いながら、仙台郷土研究をお送りしたいと言って電話を切った。間際、先生は心臓に突き刺さることをおっしゃった。 −昔は「ファ」音もあったそうですよ。 一月近く過ぎてしまったが、まだ先生にお送りしていない。時が経てば経つほど、自分の文章が言語学の専門家のお目を煩わせるのに気後れがしてきたからである。 『圏外の精神』末尾の「亀井孝略年譜」の最後の行に「一九九八年十二月『お馬ひんひん』小出昌洋編 朝日新聞社」とあり、その3行前に「一九九五年一月七日 急性腎不全のため死去、享年八十二」とある。 『お馬ひんひん』というタイトルには「亀井孝」よりも記憶を強く刺激するものがあった。日本語の教師になりたいと言っていた娘のため、日本語の成立ちや語源に関する本が目に付くと買い込んだ時期があり、その中の1冊だった(したがって、私は読んでいなかった−威張るわけではないが)。 拾い読みをするうちに、間際の先生の言葉が爪楊枝から丸太で作った杭に思えてきた。 所収に「古代人のわらいごえ」という一文があり、およそ次のような文章がある。 笑い声は古くから「は」(または「はっ」)と書き現わされているが、「は」の仮名に対応する発音は、鎌倉時代には少なくとも、まだ、今日の〔ha〕の音ではなく、両唇を狭めた「ファ」の音であったといわれている、と。 私は全く予想もしなかった道に迷い込んだことを思わずにはいられなかった。しかし、ここでは〔ha〕でなく「ファ」だとしても、それは〔fa〕だといっているわけでもない。私が確認すべきはFaxicuraという表記が、日本人の発音ゆえなのか、宣教師たち、あるいはラテン系言語の都合によるものなのかということである。 |