NO-20

残土置場にて

 20世紀も押し詰まった旧臘19日の夕刻、圃場整備事業に伴う槻木地区の集落排水路工事の担当者から電話が入った。残土の中に貝殻片が見つかったので確認してほしい、というものであった。
 件の排水路工事とは、もともと館前貝塚を横切る既存の排水路を浚渫して行われるはずの工事であったが、貝塚を破壊するので推進工法に切り替えて進められていたものである。田の地表面から上端5.8m、下端7.4m、つまり1.6mの孔を掘り進む工事である。貝層の最下底部が5.0mという調査結果に基づく。
 しかし、実際にはもう貝層がないと判断した層の下に貝層があり、そこを毀損してしまったものと推測された。
 翌日現場に赴き、残土置場に案内してもらった。貝は予想以上に散乱していた。貝はすべて牡蛎の貝殻で、他は確認できなかった。館前貝塚の貝層の最下層は牡蛎であることを確認することができた。少なくとも、そういう収穫はあった(と、思いたい)
 県の文化財保護課に状況を連絡すると、工事はそのまま進めてもよいが、貝殻は教育委員会の責任ですべて拾うようにとのことであった。
 私たちはすべて拾え、という指導に呆然とした。しかし、事態を半分楽しんでいたのも事実である。そして、すべて拾えの意味を考えた。あるはずのない場所に貝殻が散布していては将来、どのような誤解を招くかわからない。放置することは間接的に遺跡を捏造することになる、それは避けたいという思いが、とにかく指示に従って進めようという気持ちを起こさせた。
 気楽な部分も多分にあった。発掘調査ではないので、厳密な記録が求められるわけではないことである。とにかく、土以外のものを拾えばいい。足元を見ると土器片が見える。かがんで拾おうとして少し横を見ると、また落ちている。けっこう土器片も拾えるかもしれないと期待も湧いてくる。
 準備を整えて、それは主に防寒対策であったが、私たちは残土置場に集まった。曇り空だったが、幸い風がなく、寒さは心配したほどでない。施工業者からも数人の応援があった。1時間ほど思い思いの場所にうずくまってケッコヒロイ(貝っこ拾い)をしたが、1時間前とほとんど同じ場所から離れられずにいる。作業方針の変更を検討。土嚢用の袋に貝殻が散布している部分の土をいれて、郷土館に運んで土とその他のものとを選り分ける作業にせざるをえないとの結論に達した。袋が集められ、応援の皆さんには貝殻が最も多く含まれているマウンドの土を詰めてもらい、私たちは表面採集を続けた。といっても、一度かがめば、しばらくはそこから動けない。
 午後、会議があって私は現場を離れたが、窓の外に降り出した雨を見ながら現場の難儀を思っていた。
 翌日、幸い昨日の雨の影響はなかったが、寒い。風も加わる。靴底から寒さが這い上がってくる。
 応援の人たちは昨日の人たちと違っていた。現場監督がいないせいもあるのか、おしゃべりが絶えない。さりげなく、土器でも探すようにして近づく。こんな無駄なことして何になるんだ、というようなことを私に聞こえるよう言う。偶々目にした土器片を手にして「ほら、こんなのが貝殻に混ざってるから、気つけてけさいよ」というと、「おー」というような声をあげて、しばしおしゃべりが止む。
 無駄な作業をさせられていると思っているこの人たちにとって、無数に散らばる貝殻も稀に顔をみせる土器片も、無意味なことでは五十歩百歩のように思えるのだが、この「説得力」は何なのだろうと可笑しかった。
 昨秋日本国中を騒動の渦に巻き込んだ旧石器遺跡の捏造事件。ひょっとしたら、渦中のF氏は同じような体験を繰り返すうちに、踏み込んではならない領域に踏み込んでしまったのではないかと想像した。
 旧石器の遺跡は、TVなどで見ると、地表から何メートルも掘り下げていく。その間、土の色に変化はみられても、出土品は後代の遺跡に比べて絶望的なほどに少ない。作業員たちの直接、間接の批判や不満が充満し始める。そこにこれまでの定説を覆すような遺物が発見されたなら。「説得力」は私が示した土器片の比ではないだろう。作業員たちだけの批判や不満なら無視できたとしても、民間の研究所では無視できない批判や不満もある。それを抑え込むには……。
 妄想を吹き飛ばすように、昼近くには風花も舞い始めた。再び作業変更の検討をせざるをえない状況となった。県に状況を説明し、このまま作業を続けたものかどうか聞いた。残土の量を説明すると、案の定、それほどの量があるとは思わなかった、らしい。
 土器片をできるだけ丁寧に拾って、残土を置いたことを記録するだけでよいということになった。
 土嚢は運んでもらい、少しずつ調べることにした。あまり制約のない調査であり、利用法もさまざまに浮かんでくる。爆弾でも処理するかのように積み上げられた土嚢が、私には宝の山のように見え、舌舐めずりをしている今日この頃である。