思えば遠くに……
嘉永2年6月27日、伊具郡丸森村の森右衛門ら7名は伊勢参宮の旅に出た。讃岐の金比羅宮で折り返し、帰郷したのは10月3日のことである。
働き盛りの男衆が農繁期に百日近くも家を留守にするとは、と思っていたら「嘉永2年6月27日」は太陽暦にすると、1849年8月15日であると知った。つまり、三番草取りが終わって、一行は旅立ったのだった。 草取りといえば、と展示解説の途中で、一行の行程図の前に集まった人たちに尋いてみた。 草取りの時、稲の葉先から目を守るため、金網で作った面がありましたよね? どんな面か、イメージできないのなら、フェンシングの面を想像していただければよい。小さいころ、これをかぶって西洋チャンバラをやったことを憶えている。 一番年上と思われる女性が、あった、あったと頷いた。草の根を取りやすいように、指に嵌める爪もあった、と言う。 少し年齢が下ると思われる女性が、そんなのあったかなあ、憶えていないなあと首を傾げる。 僅かな年齢差で、件の面を知っている者と知らない者とに別れる。同僚との呑み会で、どのような脈絡であったか思い出せないのだが、件の面のことを口にした。しかし、誰も知らないという。そのようなものがあるはずがないとまで言う兼業農家の同僚もいた。 見渡せば、私がその席で最も年嵩となっていた。僅か4、5歳の違いで、件の面は未知の道具であった。そのような年齢になったのだと改めて思う。 それはそうと、この田の草取り時に使用した金網製の、後には石油製品の網が使用されたようにも思うのだが、この面をお持ちの方、御一報、お待ちします。 小学校6年の修学旅行は会津であった。鶴ヶ城の跡地はグランドのようになっていた。官軍の砲撃でボコボコに穴の開いた鶴ヶ城の写真を見せられた。つまり、私はお城の建物のない鶴ヶ城の跡地を知っている世代なのだ。 中学校3年の修学旅行は岩手県の繋温泉一泊であった。平泉の中尊寺金色堂は、鎌倉時代に造られたものであったか、鞘堂のなかにあった。今のようなコンピュータ制御のガラス張りではなかった。何年か前、境内に鎮座する白山神社へ通じるコースの途中に、役割を終え、移築された鞘堂に気がつき、一人感慨に耽ったものである。私は鞘堂の中の金色堂を知っている世代なのだ。 高校3年の修学旅行は奈良、京都方面だった。夜、東京で東海道本線に乗換え名古屋まで行き、ここで関西本線に乗り換えた。東京駅を出てしばらくすると東海道新幹線のブルーの車体が眠っているのが見えた。しかし、それらの車両は営業運転前の車両であった。 電話会社から電話がきた。良く理解できなかったが(正確にいえば理解しようとしなかった)、何かの案内を送るというものであった。どうも、一週間前に妻が受けていた電話の内容と同じであるようなのだ。そのことを言うと、それではジュウフクするかもしれないが、案内を送らせてもらってよいかと言う。送ってくれてもよいと言うと、それでも何か不安なのか、いろいろ説明する。そして、ジュウフクするがお送りするということを何度か繰り返した。 私は「君、それはチョウフクと言わなければ」と言いたいのを無理矢理飲み込んで、お世話様といって受話器の「外線」ボタンを押した。そして、10年後の私なら、きっと今飲み込んだ言葉を口にして、煙たがられているだろうと思った。 いや、国語は日々変化している。10年後の国語辞典には「ジュウフク、チョウフクとも」と書かれていて、反対にやり込められているかも知れない。そのころには有無は「ユウム」だし、存在は「ゾンザイ」が正しいことになっているのだろうか。 その時私は、遠くまで来てしまった自分に愕然とする。そして、貝になろう。 |