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明治初年家中分裂の背景

 「柴田家中は跋渉派と帰農派とに別れて争った」。
 胆振国有珠郡紋鼈(現在の北海道伊達市)への柴田家中の移住を語るとき、私たちはそのように表現してきた。
 この表現だと蝦夷地跋渉のことがおこって、家中が二分したかのような印象がある。移住の記事を読んで、当初、私はそのように理解した。
 話は亘理伊達家からの誘いであった。伊達家中が移住の打診をするのに、打診相手を間違えて、ために上層部が、あるいはグループがつむじを曲げたことにより意志統一が不可能になった。私はそのように解釈した。
 柴田家が所蔵する資料の中に「柴田家歴代略記」という家譜(家系図より詳しい)がある。「明治五申年中秋」とある。
 柴田家の系譜書きの中では最も詳しいものであるが、巻末の記事の異常さは、時間があまり経過しない段階で記述されたという意味で一次資料的な価値があるといえるかもしれない。
 「悪計あっての事と見えたり」「伊達藤五郎殿に属し北地跋踏を願う、是悪計之根元なり」「柴田家重宝を売転し、にくむべき者共なり」「O並びにKの悪計により其難儀不少」「悪徒O並びにK一味の者五十四人」等々、跋渉派に冠した憎悪の数々である。時間という濾過装置を通らないで噴き出た感情であることがわかる。
 跋渉派の人々が書いたとすれば、同様の記事が見られたはずである。これほどの激しい対立、以後数十年にわたって交渉が途絶えてしまうほどの対立が、単に話の進め方の、いわばボタンの掛け違いだけで生じるものであろうか。
 もちろん、有り得ないわけではないだろうが、この対立の伏線となるようなことがあったのではという思いを漠然とではあるが、抱くようになった。
 柴田家には、大和田庄松宛の、あるいは柴田意成宛の村上博の書状が大切に所蔵されている。大正の初めに出されたものである。庄松は博の義理の兄であり、また、博の夫人の四代前は柴田家の出である。
 手紙の内容は、幕末維新時に自ら体験したことを綴ったものである。
 これによれば、柴田家に仕える医師村上玄恭、博父子は柴田意広と親しく交わり、藩政についても議論するようになった。ところが、戊辰の5年前の文久3年(1863)、意広の親意利夫妻に「蛇蝎の如くに」嫌われ、永暇を賜ることになった。このため一家は刈田郡平沢に隠棲し、寺子屋をひらき時を待つ。慶応4年3月、会津討伐の新政府軍が仙台湾に上陸し、いよいよ討会の要求が厳しくなるなか、村上父子を退けた意利が亡くなり、跡を継いだ意広は博を呼び寄せ討会軍に従う。世良修蔵暗殺のことがあり、奥羽越列藩同盟が結ばれ、意広主従は肩を抱き合って泣いた。新政府軍と仙台藩との関係はふたりの思いとは別の方向に歩み始めていた。
 やがて、仙台藩は新政府軍に降服し、意広らも船岡に帰った。村上博は父を見舞うために平沢に赴き数日間滞在、その間に起こったのが白鳥事件であるが、このことについては今もって痛ましく書くことができない。
 なお、村上博は「若輩共官軍へ発砲の事起る」と書き、「白鳥事件」という言葉は使っていない。
 蝦夷地跋渉の話は村上博に直接なく、噂で聞くだけであった。彼の判断では、跋渉を主張する人々は新政府は長持ちせず、再び元の政治体制に戻るだろうから、跋渉の意志を表明し帰農することを拒否して、新政府瓦解の暁には武士に復帰することを期待している輩であった。
 村上博にとってそれは、幽閉同様の境遇の藩公の立場を一層危うくするものに思えた。 そうこうするうち、角田県の監察分任の命をうけ、同県に潜伏したとの情報のあった雲井達雄の同志桃井泰蔵の探索にあたった。その後、司法判事に補任、明治13年、甲府裁判所を最後に職を辞し悠々自適の生活に入る。
 大正6年2月、東京麻布笄町の住まいで78年の生涯を閉じた。船岡の恵林寺に墓がある。
 文久3年という年は、仙台藩で大きな動きがあった。尊皇攘夷を主張する遠藤文七郎、中島寅之助らが退けられ、幕府の方針を容認する「尊皇佐幕」派が主導権を握る。村上父子の追放も藩の方針に従うものであった。
 「尊皇佐幕」などという言葉はもちろんない。しかし、この時代、「尊皇」を標榜しない政治勢力はほとんどなく、「尊皇」を前提として幕府を討つか、幕府も助けるという対立であったと考えるので、このように表したのである。
 この対立は仙台藩の対立でもあり、船岡にもあった。文久3年という年は佐幕派が討幕派を退けた年であった。船岡には加えてもう一つの要素が加わった。意広の村上父子に対する寵愛ともいうべき厚遇である。
 厚遇、寵愛は嫉み、やっかみという影を作る。意利、意広が相次いで没し反目は自制のきかない無政府状態となる。幕末の対立が、戊辰戦争のなかで一端は解消されたかにみえたが、混乱の中、自身の身のふりかたを決めなければならない局面を迎えて噴出した、それが跋渉派と帰農派の対立である。
 村上自身、結局帰農せず、新政府の役人の道を選び船岡を離れた。しかし、対立にはあたかもTVのゴーストのように、この人物が存在したと、私は思う。
 今年、有珠山は23年ぶりに爆発した。伊達市との本格的な交流が始まったのが、この23年前の爆発がきっかけであったっことを思うと感慨深いものがある。爆発の報を聞いて、当時の水戸繁雄町長がいち早く見舞いに駆けつけた。それは、旧柴田家中の末裔である伊達市民を感動させた。しかし、水戸町長の素早い行動の背景には同市の柴田会の地道なアプローチがあった。
 たとえば、柴田会の事務長を長く務められた大槻武さん。彼は出張などで船岡を通る時、何度か途中下車して役場を尋ねたという。初めは何しに来たとでもいうような扱いだったというが、今年逝去された平井孝七郎さんだったと記憶しているのだが、収入役室に招き、旅の労をねぎらったという。大槻さんは今でもその時出された昼食の美味を語る。商家であった平井家には武士同士の対立の事実は抜け落ち、船岡から伊達市に移住した人たちのいたことだけが伝えられていた、それが幸いしたのかもしれない。ともかくも、そうした歴史に通じた人物が道を開いたといえよう。