伊勢参宮日記の挑戦
秋の企画展の柱になる(仮題)「伊勢参宮仕候御事」を、開幕までには本にしたいと頑張ってきたが、思いがけないいくつかのトラブルが重なって、まだ悪戦苦闘している。
最大にして最も軽微なそれは、愛機の故障で、それがなおるのか否か、いたずらに数週間、手を拱いていたことである。 ともあれ、問題は山積み状態であるが、一応の区切りをつける時がきた。 この参宮日記は丸森の、20代から40代までの7人の95日に渡る旅の記録の写本である。 解決されないまま残された問題を大別すると、一つには読めなかった文字がある。これには、読めても意味が理解できなかった文字も含まれている。 二つ目には、文字を読むには読めた。が、記事の背景にあったはずの、記録者の教養、知識の裏付けにまでたどりつけなかったことがある。 たとえば、次のようなことがある。一行が帰路、木曽路を急いでいる時のことである。洗馬の町を出ると追分があり、右の方向に5里ほどの原がある。木曽義仲が陣を敷き、武田信玄も陣を敷いたところである。しかし、なにより、ここは山本勘助がイノシシにのった原である。 イノシシの背にのった武将の絵を見た記憶はある。山本勘助であったかもしれない。私の教養、知識の及ぶところは精々ここまでである。 実は、件の参宮日記は写本であり、写した人物も読めなかったのか、原の名前を空白にしている。 山本勘助はその数奇な生涯ゆえに実在の人物ではない、と思われた時期がある。イノシシにのった話は伝説上の勘助の部分であろう。このことが国史大辞典にでていないのはわかるにしても、日本架空伝承人名事典をひもといても手掛かりを得ることができなかった。 彼と私の教養、知識の次元の違い、ないし時代の関心事の差を感じる。 そして第三に、問題の存在そのものに気付いていないで読んでいることである。 7月7日、筑波山の大御堂を出発した一行は、現在の茨城県筑波郡筑波町北条を通る。次のように、参宮日記に記されている。 この町中より東の方に20丁ほど行けば、蚕最初寺あり。すなわち、蚕形山桑林 寺という寺がある。右の寺より4、5丁行けば蚕形山なり。この御山は本尊二十 三夜様なり。奥の院に蚕石という砂あり。云々 この記録では「最初」という言葉は、寺の場合ならば本山、本寺というような意味で使われている。私の理解では養蚕家の信仰を集めた寺が筑波山麓にあったという程度のもので、それ以上のものを知ることはなかった。 たまたま、網野善彦、宮田登両氏の対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』を読んでいたら、富士講のことが出ていた。富士講はその名称から富士山を御神体と崇める集団であろうという以上の認識はなかった。 ところが、宮田氏によれば、この江戸末に広まった新宗教の基本的な考え方は男と女は平等であり、その平等である世界がミロクの世になる。その平等感を認識するため、それぞれ異性の仕事着に着替えて、仕事着の労働に従事するというものである。 冨士講が盛んだったのは江戸市中とその周辺の地域で、これは養蚕が非常に盛んであった地域と重なるという。養蚕の神様が蚕影(コカゲ)様である。その本社が筑波山麓にある蚕影神社である。当時は蚕形山桑林寺と一体であったのだろう。 これは養蚕とそれに続く機織りに従事したのは女性で、それに伴い、私たちが考えるよりはるかに経済的に自立していたという対談の流れのなかで語られたものである。 伊具郡における養蚕の歴史がいつに始まるものか私は知らないが、『丸森町史』資料篇には、蚕絲種紙の買人が立入る季節になった、云々で始まる資料が見えることから、藩政時代からすでに養蚕が始まっていたことがわかる。さればこそ、明治18年に金山に製糸工場が開業したのだ。 一行は蚕影神社に詣でている。そして、申受けてきたかどうかはわからないが、蚕影様の軸とお札を発行していることを記している。 こうしたことから、一行が養蚕に携わっていたことからくる関心事であったことを認識すべきであったことに思い到るのである。 また、養蚕が女性の自立を後押ししたという。明治20年代半ばの宿帳であるが、槻木にあった黒川旅館に、繭買商の女性の泊客があったことを記録している。同一人が同一年に4回泊まっている。『柴田町史』通史篇Uにみえる。 「この時代には珍しい女丈夫か」とのコメントをめぐって執筆者と対立したことを記憶している。あまりに安直で短絡なイメージの押し付けだと思ったのだ。前掲書の両者の対談を読むと、養蚕地帯では珍しいケースでもなければ、特に女丈夫である必要がないと思えてくる。 たまたま、「蚕形山桑林寺」については、以上のような事柄を知りうるに到った。しかし、気付かないままに問題を見逃していることも少なくないに違いない。 |