嗤う、教育改革
妻の末弟と私との間には抜きがたい確執がある。
弟は歴史は暗記だからつまらないという。そういえば、私の子供たちも同じ理由で毛嫌いしている、まるで、親父なんか嫌いだと直接言えないから、歴史は嫌いだと言っているかのように毛嫌いしている。 私は、歴史のいわゆる暗記すべき事柄を一所懸命暗記したという記憶がない。「鳴くよ鶯」に続くのが「平安京」というのがわからなかった。そういう暗記法を高校生の私は知らなかった。 私は、数学は暗記物だから不得手なのだと思っている。 弟は数学が得意である。どれくらいかというと、彼の母親によれば、高校時代、数学教師が問題を解けなくなると、代わって黒板に向かったという。現在も一千名余のスタッフのトップとして、数学とは無縁でない世界にいる。 その数学得意の弟が中学生の娘に数学の問題をきかれて戸惑っているという話を聞いた。公式を使わないで問題を解くという条件を前に、難しいよなぁと溜息を吐いていたというのである。暗記ではなく、考える数学という現行の指導要領によるものなのであろうが、所詮、考える力を高めるよりもテクニックが幅をきかせる。理科系の学生の数学の能力の低下がしばしばニュースになるのは、原因の一端がここにありはしないかなどとも思う。 とまれ、数学は暗記物だ、だからオレは数学が不得手なのだ、と胸を張ったものの、同時に極めて複雑な思いに駆られた。 精神科医で作家の なだ いなだ氏がお嬢さんに国語の問題をきかれて、教えると、そういう答では今は間違いになると白い目で見られたという。 文筆を業とする親が、母国語について教えることができない状況にある日本は、一体どういう文化をもつことができるのだろう、と氏が嘆いたのは30年以上も前のことである。 氏の嘆息は弟の吐いた溜息に通ずる。共通する原因は、新しい考えに立って、あるいは新しい時代に即応した教育理念と称して作成される教育指導要領である。結果、親の世代を子供の教育から排除している。 地域の教育力を見直そうという動きがある。躾は家庭で、喧伝されて久しい。知育偏重を是正するという。 ところが、親が子に伝えることができるのは躾だけではないと主張する人はあまりいない。家庭は知識を育む場所として期待されていないのである。 小学校、中学校、高等学校で得た知識、実社会での経験が教育の大きな枠組から排除されてよいほど貧弱なものとは思えない。 知識を育む場としての家庭、知識を伝える存在としての親、あるいは家族。近代教育制度が始まった明治の初めから、そうした位置付けはなされていなかった。むしろ、故意に排除してきた。 例えば、牛馬に関する知識は寺子屋の師匠上がりや師範を出たばかりの教師より、読み書きもままならぬ農家のオヤジのほうがはるかに地についた、実践的な知識を有していた。 国家の威信をかけて始まった教育を担う教師は、まず読み書きもままならぬ農家のオヤジたちを平伏せさせなければならない。したがって、教科書には牛馬のように身近で役に立つ動物は避けて、農家のオヤジたちが見たこともない象やサイ、ライオンといった「奇異な動物も知っている教師」が養成された。 いつか、何かの機会に読んだ記事であるが、検証したわけではないので、記憶違いがあるかもしれない。それでも、本当に必要な知識より奇異な事柄・事象を優先させてきたという指摘には思い当たるふしがある。 例えば、会話もできないのに文法にこだわり、reading中心の英語教育、それを支える教科書の編集現場は大江健三郎ばりの、読者をたぶらかすために練り上げられた複雑で難解極まりない文章を載せなければという脅迫観念に苛まれている。 繰り返しになるが、親が学校教育で得た知識、そして実社会で身に付けた知識は我が子を前に蔑ろにされてよいはずがない、と数学得意の弟の溜息に思う。 知育偏重が批判に晒されているからといって、親に、あるいは家庭に躾だけでなく知識を伝える機能があること忘れてはならない。学校が知識を身につける場だけでなく、躾をする場であることを忘れてはならないのとおなじである。 それにしても、わからない。私の子供たちはどうして歴史と聞いただけで毛嫌いするのだろう、本当に不思議だ。 |