NO-8

杉並区永福寺界隈 A

 小室達は昭和3年から27年まで、25冊の日記を遺した。それは東京都杉並区永福寺の戦前から戦中、戦後にいたる、優れた民俗誌ということができる。
 『文選』所載の文章は『武蔵野日記』から選んだもので、私が古本屋から求めた『永福寺餘暇』と同じ昭和9年発行である。
 佐土君という彫刻家が押しかけで、画伯の家で朝飯を食べるようになった。あまつさえ、アトリエで仕事もするようになった。それは我慢するにしても、画伯のことを「六さん」と呼ぶ。六さんなどと呼ばれるいわれはない。画伯の奥さんはそのいわれを、とうに知っていた。宿六の六さんだというのである。
 当時、永福寺界隈には「三馬鹿」という言葉があった。画伯には二人までは見当がついた。一人は冬でも裸に近い姿で暮らし、画伯の家の周りで野宿している男で、顔立ちは立派だが、心に病を抱えている。もう一人は佐土君である。
 この佐土君、画伯のアトリエで一仕事を終え、自分の家に帰ると言いに来たとき、画伯はそれを喜び、これからは三馬鹿などと言われてはいけないと諭した。すると、佐土君が、三馬鹿のもう一人は六さんのことだと言ったというのである。そして、次のように結んでいる。
 私はどうかと思ふが、此間防空演習の時伝令になつて交番の床几に腰かけていた時、巡査は私にはまともな話をしなかった。
 画伯の文章には、小室と小室のアトリエが次のように表わされる。
 私の所へ来る客はよく私の家と間違へるが、永福寺にはアトリエが六つもあるのである。
 一軒は亡くなった山本森之助さんの家、他は帝展の彫刻家のアトリエなのである。その中で一番養魚所の池に近いのが、国木田独歩の第二子佐土君の家なのである。
 独歩の詳しい家系はわからないが、筑摩現代文学大系6所収の年譜によれば、1男3女があった。榎本武揚の娘治子と結婚したのが明治31年、34年にはすでに長女貞が生まれている。長男虎男が生まれたのが35年で、画伯の「独歩の第二子」が正しければ、この虎男が佐土哲二ということになる。
 再び、閑話休題。独歩には佐々城信子との間に女子が一人いる。離婚してから生まれたため、独歩は長いことこの女性の存在を知らなかった。信子は矯風会で婦人運動の旗手佐々城豊寿の娘、相馬黒光の従姉妹である。
 佐土哲二が虎男なのかどうか、今はわからない。ともあれ、佐土は昭和4年の帝展で初入選を果たしている。「望み」という作品である。しかし、それが最後の入選であった。翌年、小室家では佐土の「落選祝賀会」が開かれている。
 画伯の文章で、小室は「帝展の彫刻家」と、きわめて素っ気ない書き方がされている。一方で、画伯をからかっているようにも見える佐土哲二に対する態度には優しさが感じられる。
 師をもたず、在野にあって、いわゆる官展(帝展)とは距離をおいて画業を積んできた画伯にとって、官展で活躍する作家にあまり関心がない。佐土君に関心が少しでもいだくのは、多分彼が次のような存在だからであろう。
 佐土君は美術学校の彫刻科を二年前首席で出た。アトリエの隅には反りかへったのや手を挙げたのや彫塑が並んでゐる。よく帝展で黎明とか凝視とか題してあるやうなスクールである。私は少しも感心しないが、当人もさういう作品に疑問を懐いて煩悶してゐるのである。
 佐土の生い立ちは先に書いたが、画伯の家族もまた興味深い。画伯の夫人は5男2女の6番目。直ぐ上の兄が舞台美術家の伊藤喜朔、弟が演出家千田是也である。千田は俳優座創立者の一人で伊藤も俳優座の仕事をしている。
 3年ほど前になるだろうか、永福寺の小室家を訪ねての帰り道、達の長男穣嗣さん夫妻に途中まで送っていただいたときのことである。今は越しましたが、近くに栗原小巻さんが住んでいまして、電車に彼女が乗って来るとその車両だけ特別に華やいだものです、穣嗣さんがおっしゃって、奥様が相槌を打たれた。
 それは私など経験したことのない至福の時であったに違いない。経験したことがないから、30年近く前の、この女優にまつわる、おぞましい体験をした人の話を思い出していた。
 NHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』の録画取りをしていたときのことであったらしい。出演者たちは単に自分の役を演じるだけでなく、宣伝にも一役かって、柴田町にもやってきた。一行が船岡小学校にやってきたとき、かの女優がトイレをお借りしたいといった。パニックが校内を駆け巡った。
 なにしろ、当時の船小のトイレときたら、臭い・汚い・壊れそうと三拍子揃っていた。多くの先生方は今ここにいる不幸を嘆かずにはいられなかた。
 穣嗣さんの話をうかがって、その不幸をより一層リアルに認識することができた、からといって、私は不幸にも幸せにもならなかったが。
 そして、この類まれな美貌の女優の名を出したのは、永福寺に中川画伯がいて、義弟千田是也がいて俳優座女優栗原小巻が生まれたのか、という想像を書くこと、ただそれだけのためである。