苗 字 の 妙
江戸時代の初め、入間野村(槻木)の一部は玉虫氏の領知するところであった。初期の知行目録には物成百姓、つまり租税を負担する耕作者の名前が記されていた。
玉虫氏の入間野村関係の目録は2通残っている。いずれも、仙台市博物館の所蔵である。このうち、寛永13年(1636)の「物成百姓名付小日記」には手作と寺院3ヶ寺(東禅寺・千手院・満蔵院)とともに13人の百姓の名が記されている。 13人のうち船渡し帯刀という役割を冠した人物を除けば、苗字を冠したもの(庄子将監・桜井藤兵衛・小池九郎左衛門・井上九郎右衛門)と屋敷名を冠したもの(北屋敷源七郎・同与左衛門・東屋敷対馬・館前又一郎・葛岡惣右衛門・戸の入伊予・畑中甚蔵・町甚右衛門)とがある。 ところが、寛永21年の「知行目録」をみると、屋敷名を冠した10名の百姓の名前だけになる。すなわち、本宿屋敷将監、白幡屋敷猿次、下町惣左衛門、肝煎内屋敷茂右衛門、下町九郎左衛門、下町二右衛門、上町源右衛門、上町太郎兵衛、上町掃部左衛門内千松、上町七郎兵衛である。 時代は移ろうとしていた。 寛永13年、藩祖政宗逝き、若林御蔵が焼失した。土地台帳である検地帳もこの火災で烏有に帰した。このため仙台藩では、寛永17年から領内全域にわたる総検地を開始し、20年に終了した。この結果に基づいて、翌21年から藩は課税を開始した。新体制は百姓の名前の表記の変化に表れた。この年、改元されて正保となった。 この寛永の総検地で、藩は1間の長さ6尺3寸を変えないまゝ、1反360歩を1反300歩に改めた。そのため、360歩がこれまで1反歩だったのが、1反2歩となった。これを2割増加という意味で二割出目という。近世支配体制の整備は着々と進んでいた。 すでに知られているように、江戸時代、農民に苗字がなかったわけではない。ただ、正式に使用することができなかったということである。しかし、非公式にも使用することが許されなくなった。それが元禄10年代のことだったのでは、と考えている。 槻木白幡の八幡神社が鎮座する丘陵東側の麓には、かつて満蔵院白幡寺(船迫の新義真言宗松光山大光院末)があった。この廃寺跡に庚申塔の形態の一つである青面金剛像が建っている。元禄17年(1704−宝永元)の紀年銘があり、町内に3基ある青面金剛像のなかで最も古い像である。郡内でも最古だったと記憶している。その隣には、町内、いや、これも郡内で最古の文字を刻んだ庚申塔(「奉供養庚申成就各二世安楽所」と刻まれている。元禄11年の紀年銘がある)が建っている。 この青面金剛像が、初めから現在地にあったわけではないことは、次のことから推測される。像の台座の正面と背面に8名、左側に9名の人名が刻まれているが、右側には何も彫られていない。これは移動した際、正面にすべき面を誤って左側にしてしまったと考えられるからである。 さて、像の塔身左側面には日下五兵衛と井上重右衛門の名がみえ、さらに、台座には25名が確認できる。このうち、一部が読みかねて判然しないものが4名あり、これを除くと「佐藤」3、「水原」「鶴見」「日下」「高橋」が2、「板橋」「平間」「田母神」「渡辺」「小林」「井上」「松下」「小池」「伊藤」「百々」がそれぞれ1名という構成になる。 この時期、いな、藩政時代を通じて入間野村にこれほど多くの武士がいたことはなく、像に彫られた苗字を冠した人物はすべて入間野村御百姓とみるべきなのである。 一方、船岡の恵林寺には、なにを根拠としているのかわからないが、原田甲斐の墓と伝えられている、六字の名号(南無阿弥陀仏)を刻した供養塔が建っている。 塔の左側面には建立に参画したと思われる人々の名前が彫られている。しかし、その名前に冠せられているのは苗字ではなく、渡辺屋とか駒板屋などのような屋号である。 紀年銘は確認できないが、元禄年間のものと推測している。 元禄年間、一方の石碑には苗字が冠せられており、他方には苗字ではなく屋号が冠せられている。 寛永の総検地後の、知行目録にみられる変化、そして元禄年間の石碑にみられる表記の差異。これらのことから苗字について、つまりは身分について固定化しようとする、あるいは固定化をより強化しようとする体制の動きを読み取ることができる。 藩政時代、農民は苗字をもっていなかったわけではない。しかしながら、すべての農民が苗字を有していたわけではない。また、使えないまま忘れられた苗字もあったに違いない。 明治になって、すべての日本人が苗字を名乗ることを義務付けられたとき、国民の間に少なからず混乱が生じた。日本人はパーソナルネームの上に冠するファミリーネームを有している人たちも少なくなかった。それは苗字であったり、屋号や屋敷名であったり、職業であったりした。 苗字を、といわれた時、屋敷名や屋号ではなく、多くの人々の念頭に浮かんだのは特権としてのファミリーネームである苗字であった。そのため、苗字をもたない、あるいは失った人々は苗字を有する家にならった。 職業柄か、はたまた年齢のせいか、地元の人ならば苗字で、おおよそ、その住まい、あるいは実家の見当がつくようになった。 船岡や槻木のように人口が集中する地区は以下の地区にプラスして考えなければならないが、例えば、安藤さんといえば船迫、岩間さんも船迫とみてほぼ間違いない。大沼さんは槻木、上川名、成田のいずれか。加藤さんは槻木、上川名、富沢、入間田、斎藤さんなら四日市場、佐々木さんなら四日市場のうちでも山根地区と葉坂ということになる。引地さん、曳地さんなら四日市場であるが、曳地さんは引地さんの分家の流れと語り伝える人もいる。 大宮さんといえば成田、富沢だし、大久保さんは四日市場だ。瀬戸さんも四日市場である。高橋さんのように比較的多い苗字も船迫、入間田、入間野だし、加茂さん・笠松さんは下名生に多い。水戸さんは下名生と上名生ということになる。船岡の及川さん・猪股さんは、その多くが柴田氏が米谷時代に家中となった人の子孫の方々である。 切りがないのでこれくらいにしよう。 例えば、船迫に宮城さんがいて、上川名に小畑さんがいること。このことの必然を私は独善的に思い込んでいる。 政宗の曽祖父稙宗の弟景宗が留守家に入嗣するにあたり、伊達家からこれにしたがった家臣団があった。その家臣団のなかに柴田の七騎と呼ばれたグループがあった。 入間田源七郎、富沢藤太郎、鳩原掃部助、富塚孫右衛門、上川名蔵助、岩沢修理亮、海老穴藤八郎、これに船迫が加わる。これらの地区は少なくも16世紀前半は留守氏の領地であった。留守氏はもともと宮城郡の岩切周辺を本拠としたため、宮城と称せられることもあった。さらに、留守氏の重臣のなかに小畑氏がいた。 学問的には、この史実と船迫に宮城さんがいて、上川名に小畑さんがいることとは無関係である。しかし、私には無関係とは思えない。小畑さんの先祖は藩政初期の上川名の肝入を勤めた家柄で初代は小畑の苗字を許されている。ただし、これは18世紀前半のことである。藩政時代に宮城さんの先祖がそれを名乗った記録はない。 いずれも、戦国時代と結び付くものはない。しかし、なぜ宮城なのか、なぜ小畑なのか。柴田の七騎を抜きにしては理解できない。なぜ、時をへだてて、あたかも伏流水のように宮城、小畑がよみがえったのか。ほかの土地には七騎の痕跡が残らなかったのに、なぜ船迫と上川名に残ったのか。 それは、そう、それはこれから探そう。 例えば、なぜ村田町に真壁さんがいるのか。 筑波山西側に真壁郡がある。ここに、明野町があり、ここに紫尾という地区がある。『大日本地名辞書』全8巻を表した吉田東伍はこれを「シオ」と読み、柴田氏の祖四保氏の故地とした。村田城には四保駿河が南朝に属し北朝勢と対峙していた。近くの下館市は伊達氏の故地である。 ちょっと前の、誰だったか、総理大臣の候補者選びを「ガラガラポン」と表されたことがなかっただろうか。みたように、柴田郡と地名と氏が関連するのをみると、なにやら因縁浅からぬものを感じるが、歴史の研究は首相選びのようにガラガラポンというわけにはいかない。ここはもう少し慎重にいきましょう。 10何年か前、明野町長は平間さんとおっしゃた。町内で入間田、葉坂、成田に多いが、珍しく(も)ない苗字である。全国調査をしてのことではないが、平間姓の分布は、この真壁郡と仙南地方に集中するとか。また、ガラガラポンのガラが増えたみたいだ。 公民館槻木分館の事業で、古文書の勉強会を始めて、もう5、6年になろうか。現在、テキストは船岡の大和田竹郎さん所蔵の「諸式御家方諸格式之留」を使用している。このなかに「八甫谷兵記」という仙台藩士の名が出てくる。 なんと読めばよいのか悩んでいたら「ハッポウヤ」と読むと教えてくださったのは、会長の渡辺さん。実は槻木に八甫谷さんがお住まいだという。 人口増加がひところほど右肩上がりではなくなったものの、依然として柴田町に移り住む方も多く、まさか(?)と思うような珍しい苗字にお目にかかることも少なくない。八甫谷さんもその一例といえる。 珍しい苗字の方にお会いして、出身地を聞き、その地で多いのか、珍しいのかなど伺うと、ちょっとした旅行をした気分に浸ることができる。根が安上がりにできていると思う。 |