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桜 は 妖 し い

 桜の季節に桜の本の新聞広告。注文して手元に届いた時には北海道でも桜の季節の終わりを告げるニュース。その注文した本が届いた。
 撮影するうえでのテクニックなのだろう、桜だけを写すというよりは、残雪の山並みや青空をバックにしたものが多い。しかし、一番に目をひくのは若葉に囲まれて咲く桜、極めつけは吉野の桜。
 多彩な緑と桜とが醸し出すグラデーションの美しさは桜の美の醍醐味だと思う。
 県内屈指の桜の名所・船岡城址公園の桜は、私の事務室の目の前にある。窓枠はあたかも桜の岡を描いた絵画を飾る額縁である。そのような部屋を仕事場としている私が、桜を最も美しいと感じるのは公園を埋めるソメイヨシノが葉桜になり新緑に溶け込もうという時期、山桜が怖々とその存在感を主張し始める時である。
 表蔵王ゴルフ場や四日市場の深山にも新緑の中に桜が浮かび上がってくる時期でもある。
 尤も城址公園の、ソメイヨシノと八重桜を除く桜を「山桜」という名で一括りにしてよいか、甚だ心許無い。ソメイヨシノに先立って咲く木もあれば、ソメイヨシノが葉桜になってから咲き始めるのもあり、紅色の濃いものもあれば、白に近いものもある。20種近い種類があると聞いたことがある。
 桜が人々の話題にのぼらなくなったころに、郷土館の駐車場南側の丘陵斜面の一角を真っ白に染める桜がある。隣の楓の若緑とのコントラストが美しい。その種子が運ばれて実生したのか、駐車場北側の水路沿いの法面にも同種の桜と思われる木がかなりの大きさになっている。カスミザクラという種類であろうか。
 城址公園のソメイヨシノは明治40年(1907)、飯淵七三郎翁によって植栽されたもので、すでに樹齢90年を越えている。危機感を覚えた人たちによって「さくらの会」が結成され、若木が育っている。
 山の斜面を埋め尽くす桜。私はすごいとは思っても、それ以上の感興は湧かない。ちょうど精巧な中国の工芸品みたいなもので、すごいとは思っても部屋に飾りたいとか、自分のものにしたいとは思わないのと同じである(と、これは手に入りっこない者の負け惜しみとといわれるかもしれない)。
 この原稿を書いている時に、TVで新進気鋭の書道家が「桜は大嫌いだ、集団行動の象徴みたいなものだから」と言っているのが耳に残った。甲子園の熱狂に共鳴できないのも同じ理由かと自問してみた。
 とはいえ、満山の桜にはいくつかの忘れがたい光景がある。
葉坂の山に咲く山桜
山一面が桜色になる船岡城址公園
 1996年の桜の開花は遅かった。土、日と緑の日が続いて三連休となるのを利用して妻の両親が来た。父は2年前、食道癌の手術を受けており、体調は万全ではなかった。その父どのような思いで娘の家を訪れたか、今となっては知るべくもない。
 この年は、例年、花に誘われて吹き荒れる強風も、遅い開花に興を殺がれたのか、穏やかな連休入りだった。風に吹かれて散る花ビラではなく、散る時期がきて花ビラは静かに舞っていた。中腹の駐車場はあたかもうっすらと積もった雪が陽にとけるのを待つかの如くであった。
 父と私たちは二の丸跡から、三の丸跡を埋め尽くした爛漫の桜花に息をのみ、立ちつくした。
 翌年夏、父は壮絶な闘病の末に旅立った。
 桜は常に死との連想の輪のなかにあった。西行しかり、梶井基次郎もまた桜の花に死をイメージした。その変容の劇的であるがゆえに、人の世のはかなさと重ねあわせたものと理解される。
 しかし、その劇的な変容は時に「妖しさ」のイメージでもある。
 同じ96年、遅い開花は4月20日過ぎのこと。その後もあまり気温は上がらず開花は進まなかったようである。手帳のメモによれば23日のことである。
 この日の朝、桜はやっと四分か五分咲きといったところであった。気温の上昇が予想されており、一気に進むだろうと予想された。しかし、この日はほとんど事務室を出ることなく時間は過ぎ、午後は西日を咲けてブラインドを下ろすので、公園の桜を目にすることはなかった。
 退庁時刻が来て、私は外に出た。自然、山に視線が向く。次の瞬間、私は見てはならないものを目にした思いに襲われて目を逸らした。そして、今目を逸らしたものを確かめるために再び山に視線を移した。
 朝には満開に未だほど遠かった桜が、夕暮時の今、満山爛漫の桜があった。その変容は私の想像を越えていた。信じがたい変わりように、私は受け入れるのをためらったのだった。それは、過ぎし日、浴室で娘のかすかな胸のふくらみの予徴を目にした時のうろたえにも似たものであった。
 桜はやはり妖しい。