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白石川の孤独

 昭和55年の初夏であったか、船岡の恵林寺裏山の杉林が時ならぬ騒音につつまれたのは。ゴイサギが移住してきて集団営巣しようとしていたのだ。その不気味な鳴き声もさることながら、小魚やザリガニを主食とするゴイサギの糞はカルシュウム分を多く含み、集団営巣は杉林をそのカルシュウム分によって枯死させる懸念が指摘された。
 ゴイサギが恵林寺上空を飛翔するようすは、当時私がいた編纂室からよく見えたし、望遠レンズのついたカメラを三脚にセットしておきもした。そして、このことが私が町内にサギが棲息していることを意識するきっかけであった。
 現在、柴田町でみることができるサギは5種である。シラサギという名で一括りされているダイサギ(大鷺)とコサギ(小鷺)、頭部に淡い朱色のあるアマサギもシラサギと認識されているかもしれない。さらに、ゴイサギがおり、国内最大のサギであるアオサギがいる。
 JR東北本線、白石川鉄橋の上流、稲荷山用水堰堤の魚道にたたずむ一羽の大型の鳥に気がついてもう十数年になる。アオサギを確認した最初である。白石川右岸の日立電子構内の池の端に影をおとす柳が棲み家だと教えてくれる人がいた。
 国内最大といっても飛ぶ姿を見なければ、その大きさを理解するのは難しいかもしれない。私自身、この鳥が飛ぶのを町内で見た記憶はない。たまたま、日本海に注ぐ河口近くで、乗った車に驚いて飛び立つ姿を、何度か見たことがある。ゆったりとした羽撃きの、翼のしなりがガラス越しにも聞こえてくるような、そんな羽撃きであった。
 堰堤の魚道にたたずむアオサギは一羽だけで、パートナーがいるようにも思えない。かつては町内にアオサギは珍しい鳥ではなかった。そして、それはミナクチマブリと呼ばれたと教えてくれたのは亡くなった加藤政勝先生だった。ミナクチ(水口)、つまり田圃の水の取入れ口は淡水魚やザリガニ等が通過する時、それはそこで獲物を待つアオサギにとって絶好の漁場となる。マブリ、マブルの変化であるが、無為に時を過ごすことをこのように言う。
 水口で、いつくるともしれない獲物をまつ姿は無為に時を過ごしていると解された。そして今、水口は魚道に変わった。私にはアオサギが、無為な時を過ごしているようには思えなかった。ただ、なぜか、ひたすら孤独に耐えている、そう思えて、それがあまりに人間の、否、私自身の感情移入のなせるわざとは知りつつも、その思いを拭えない。 恵林寺裏山に集団営巣を企んだゴイサギたちは、特別被害をもたらすこともなくどこかへ移っていった。その群からはぐれたのか、あるいは別の群からはぐれたのか、今も町内で数羽のゴイサギを見ることができる。
 そんな一羽を、何年か前の夏、稲荷山用水堰堤下で見たことがある。堰堤を滑りおちる水は、古来日本人が「白糸」、あるいは「布引き」と表現してきた瀧のたたずまいを思い起こさせた。強い夏の日差しのもとで、時はその歩みを止めているかのようであった。
 きらめく糸筋のような水の流れを背に、その鳥はいた。他のサギはその長い首を伸ばしたまま獲物を待ち、獲物を漁る。しかし、ゴイサギは首を体に埋めこむようにして獲物を待つ。その様は雪景色の水墨画、蓑笠を着けて、流れに任せた小舟の上に立つ老いた舟人を連想させた。孤独感はあったが、悲哀はなかった。老成した自信と諦念した潔さがあった。
 そして、朝夕、鉄橋を渡る車窓から見るアオサギは孤独の悲哀をまとって、いつもそこにいた。