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春、三月に思うこと

 「日本、春三月」この言葉の響きには、遠く日本を離れていても、何故かしら心浮き立つ思いが湧き起こります。毎年春になると必ず手紙をくれる古い友人が日本にいます。庭の花が咲き始め春が満ちて来るうれしさを、毎年同じ口調で訴えるように綴ってくるのです。友人は毎年決まった頃に春の訪れを私に知らせよこしているとは気付いていないようです。思わず知らず春の喜びを筆に託しているからでしょう。私は長い間その友人からの春の知らせを、何故か、喜べない思いを持って手にしていました。自ら決断したこと、ではあるのですが、四季のない国で永住することになったわが身に、春の喜びを伝え知らせる友人の手紙は、胸の奥底に自分でも気付かなかった痛む部分があることをじわりじわりと自覚させてくれたのでした。後悔してはいないけれど、でも、後悔しているのだろうか。そう問いかけながら四分の一世紀以上が過ぎました。
 トロピカルカントリー定番の花、ブーゲンビリア、色の種類もたくさんあって、見事な咲き誇りを見せる木に出会うと立ち止まってしまいます。 シンガポールの街路樹に多く使われている合歓の木、扇を広げたような可憐な花が風に揺れるシーンはさながら扇の舞いを見ているようです。

  去年26年ぶりに日本の春を、香りを、野山を、草花を、桜を楽しんだ私を喜んでくれたその友人は、今年も春の知らせを送ってくれるでしょうか。毎年私の中の避けていたい思いの部分を晒し出してくれる春の便りを、今年はようやく吹っ切れた思いで封を切る自信がつきました。こんな私の思いなど心やさしい友人は知る由もないでしょう。
 会社勤めの娘さんに手助けされながらやっとメールができるようになったとはしゃいでいる友人は、今年の春の便りはメールで送って来るつもりなのか、それとも今までと同じように封書で送られて来るのでしょうか。今年はためらいなく封を切る自信がある私は郵便で送られて来ることを密かに期待しているのです。
 日本の春は花咲き競う季節。ああ、羨ましい。単純に花が好きな部類に入る私は日本を去って何を失ったかと問われれば「花」の一言に尽きるでしょう。
 シンガポールはガーデンシティーと呼ばれるにふさわしく、よく手入れ計画された豊かな緑の街路樹は訪れる人にも住んでいる者にも安らぎを与えてくれます。緑はあるのだけれど花がないと寂しく思っていたのは私だけではなかったようで、10年ほど前だったでしょうか、政府は花の咲く木を植える運動を起こしました。熱帯の太陽と熱、そして多雨のおかげでみるみる成長し、この数年、緑の中に花の咲く木が目を引くようになりました。一年中花を咲かせている木、季節があるかのように一定の期間を置いて咲く花、花の種類は悲しいほど少ないのですが、一年中見ていてもあきることのない南国の花に、私はかなりの部分で慰めを受けているようです。
 高層ビルとアスファルトの人工の街に変わってしまった南の島にも、昔はこのような野の花に覆われた場所がたくさんあったのだろうと思わされる、ミモザの花。 オーキッドツリー(蘭の木)、この花を見るたびに、日本の都会の街路樹に良く似合うハナミズキを思い出します。