|
柴田町の桜 シンガポールからのたより 1 「ひょっとしたら桜に間に合うかもしれない」、4月中旬の東京での用事の日程に合わせて、シンガポールから日本への一時帰国を計画し始めた時に、そう思ったのが、柴田町を訪れることになった始まりだったようだ。
よくよく数えてみると、海外に住んで26年たっている。その間、桜を見たいと思いつつも桜の季節に帰国することは一度もなかった。年を取ってきたせいかこの数年、桜に対する郷愁がだんだん強まってくる。
柴田町さくらの会のホームページはとても面白く、私にはとても興味深い内容だったので、全ての項目に目を通してしまった。このホームページを通して、柴田町のみなさんが、郷土をこよなく愛し、誇りに思い、柴田町の自然が失われて行くことを憂い、町の花である桜を大切に守り育てておられる姿を知り、このように郷土を愛してやまない人々に守られている、柴田町の桜を是非とも見てみたいものだと思った。 柴田町に行くと決めたけれど、駅からどうやって白石川堤や船岡城址公園に行くのだろう、バスで回るのだろうか、それとも電車で回るのだろうか、三カ所の桜の名所は一日で回りきれる距離なのだろうか、私の体力では東京からの日帰りは無理のようだけれど、ホテルや旅館があるのだろうか、知りたいことだらけである。そのような質問をホームページ管理者にメールで問い合わせてみた。折り返し送られてきた回答には、信じ難いような柴田町案内の申し出が添えられていた。お申し出をありがたく受けたものの、本当にお願いしてよかったのだろうかと言う戸惑いを持ちながら、シンガポールを飛び発ち、息子と二人、柴田町へと向かうことになった。 メールを何度か交換はしていたものの、初めてお会いする方々に、私も息子もかなり緊張して船岡駅に立っていた。出迎えてくださったホームページ管理者ご本人と息子さん、さくらの会の女性会員の方の笑顔に、緊張も消え去り、挨拶もそこそこにさっそく白石川堤に案内していただいた。最も楽しみにしていた場所である。
船岡城址公園、太陽の村ではまだ満開を誇っている桜に出会え、存分に堪能することができた。太陽の村で息子と満開の桜を見上げている時、いつか、遠い昔、同じような光景に自分がいたことを思い出した。 母と二人で咲き誇る桜の下で、今と同じように桜を見上げていた。思い返せば母と二人だけで桜を見に出かけたのは、それが最初で最後だった。母にとってはその時が最後の花見であったし、私の桜の思い出もそこで途切れている。その最後の花見から数年にわたる闘病後、母は他界した。もう30年近くも昔のことである。桜も人の生もすぐに終わりがくるものだと、今なら素直に受け入れることができるのだが。いつか息子もこの情景を懐かしく思い出す時が来るのだろうと、暮れて行く自分の人生にちょっぴり寂しさを感じたりした。 その晩は峩々温泉に案内していただいた。翌日は雪を見たことのない息子のために、雪の残っている所まで車で登ってくださった。福島県の山里や阿武隈川沿いでは、春の自然があふれていて、懐かしい春の草花にあれもこれもとシャッターを切ったのだが、出来上がった写真を見てみると、地面と枯れ草の写真ばかりで何を撮ったのやらわからない。
前さくらの会副会長さんのお宅では、どこの何者やらわからない私たち母子に盛大な席を設けていただいた。さくらの会会長さんや事務局の方も、わざわざお仕事の最中に時間を割いて同席してくださった。峩々温泉では、別のさくらの会の会員お二人が、お疲れであろうに勤務のあと私たちに合流し、楽しい夜を演出してくださった。お一人の方は翌日お仕事を休んで私たちの行程にお付き合いくださった。特にホームページの管理責任の方は二日間もお仕事を休んで私たちを案内してくださった。 お一人お一人がとても印象深く、一度にこんなにたくさんの素晴らしい方々と知り合えたことに、感謝と感動でいっぱいである。さくらの会の皆さんのご親切に、どのようなお礼の言葉で私の気持ちを伝えればいいのか、今もって分からないでいる。何も見返りがあるわけではないのに、何故柴田町の皆さんは、未知の人間にこんなに奉仕ができるのだろうと言う「不思議」を抱えて、私はシンガポールに戻ってきている。 こうしてたっぷり楽しんだ日本の春を思い返す時、桜の感動も勿論だが、一通のメールから始まった、さくらの会の皆さんとの出会いの感動の方が、もっと大きく心の中を占めていることに気付かされている。 |