小池先生にお願いし、7月に“短歌人会”に入会した。この6首は“月刊誌・短歌人”9月号に掲載された私の短歌である。私は平成10年3月から短歌を作りはじめ、地方紙の河北新報に投稿をはじめた。同年5月、河北歌壇に初入選した短歌は
幸いに、平成11年上期の河北花壇賞(佐藤通雅選)を受賞した。短歌の入門書や月刊の総合雑誌“短歌(角川書店発行)”を定期購読しての独学で短歌を詠んできた。
が、このごろ、“ひとりよがりの短歌”“自己満足の難解な短歌”を作っているのではないか?…。とのおもいが強くなってきた。 “ひとりよがりの短歌”と“個性的な表現の新鮮な短歌”は紙一重の差にあると私はおもう。この“紙一重の差”が独学では判断できないとおもうようになった。短歌結社に加入し、月例会や歌会で批評していただくことが必要だとおもった。 結社に加入するときは柴田町船岡出身の小池光先生が編集人の“短歌人会”へと決めていた。ことし3月9日付の河北新報で小池光先生が芸術選奨の文部科学大臣新人賞を歌集“静物”で受賞した、と報道されたときは心から喜びを感じた。 私は、小池光先生の御両親にひとかたならないお世話になり、御指導をいただいた。 光先生のお母様・恭(きょう)様には「柴田町役場の就職試験を受験するように。」と、お勧めをいただいた。高校卒業後、仙台市内の自動車修理工場に勤務していた私に、強く受験を勧めてくれた。私が母子家庭に育ち、恭様が柴田町役場で母子福祉の事務を担当されていたご縁からであった。私は試験に合格し、恭様と一緒の職場に勤務することになった。 新参の仕事ぶりを心配し、周囲の職員に指導を頼むやら、毎朝、私の様子を見に来るやらと、とにかく目をかけていただいた。配属されたのが出納室であり、私が算盤(そろばん)も出来ない新人だったので、殊更心配だったのだろう。 恭様は福祉関係の事務を長く担当されていた。ご主人の大池唯雄先生(第8回直木賞作家。本名は小池唯雄。)が昭和43年4月から河北新報に「炎の時代」を連載することになり、執筆が多忙になったのを機に役場を退職された。 光先生のお父様の大池唯雄先生は私にとって文学の恩師であった。役場に就職した私は、毎日、公民館の図書室を訪ねるようになった。大池唯雄先生は柴田町公民館長(非常勤だったとおもう。)としても活躍されていた。煩繁に図書室に出入りする私に、先生は読書の指導をしてくださった。 私は出納室から秘書企画室へ配置替えになり、町の広報紙の編集を担当するようになった。20歳代の後半から30歳代の前半の8年間である。毎月、広報紙の印刷があがると、早速2〜3部を持参し、大池先生の書斎を訪ねた。先生に批評していただき、指導していただいた。 「文章を飾るな。平易で正確な文章を書け。」と言われ続けた。「小学校の5〜6年生から中学1〜2年生が読んで理解できる広報紙を作れ。」と指導された。私は“小学国語辞典”を使って原稿を書いた。教育漢字以外の漢字は固有名詞しか使用しなかったとおもう。 眼光鋭く、黒縁の丸い目がね越しに睨みつけられたこともあったが、いつも慈愛を感じた。 昭和45年5月、先生が急逝された。あのときは驚きと悲嘆で身体が震えてどうしようもなかった。御家族の悲しみをおもうと心が痛んだ。 私は、つくづく因縁を感じる。御両親にお世話になり御指導を受け、いまは御子息の御指導をいただいているのである。 短歌人会の宮城支部の活動にも、積極的に参加しようとおもう。 さらに、きびしい修練の道を歩む覚悟はできている。 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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