NO-40

 
瞬時にて中学生にもどりたる同期会なり白髪の友情(とも)
 
 1112日(日)午後3時にわが家を出発した車が東北自動車を走り、飯坂温泉に着いたのは午後4時だった。車は同級生のS君のもので、私は同乗させてもらった。
1112(日)〜13日(月)にかけての“昭和30年船岡中学校第8回卒業生同期会”に出席するためである。会場は旅館「湯乃屋」。先発組み世話人が受付や部屋の案内にかけまわっていた。この同期会は3年ごとに開催(前回の還暦祝いの会で決定した。それまでは4年ごとに開催していた。)する。今回からは恩師の招待を中止することになった。高齢のため出席をお願いできなくなった。自分たちが62歳なのだから自然の成り行きなのである。
 私とS君は同室で、指定の部屋へ行くと馴染みの顔が揃っていた。7人が同室である。顔には覚えがあるのだが、二人の名前が思い出せない。名乗られて<あっ>と気付いた。東京から参加のK君と隣町の亘理町から参加のO君である。残る5名は同じ町内在住者だから、何かにつけて顔を合わせている。
 昭和30年に船岡中学校を卒業したのだから46年の歳月が過ぎている。が、名前を聞けば瞬時に中学生時代の顔が浮かんでくる。私たちは5クラスで267名の同級生がいた。すでに15名の物故者がいる。名簿に物故者の欄が設けてあった。健康で同期会に参加できることの幸せをおもった。
 今回の同期会の参加者は64名(女性21名、男性43名)である。遠方からの参加者は女性では東京からが多いが、青森県十和田市、神奈川県横浜市、埼玉県川口市、愛知県蒲郡市などの参加者もいる。男性では東京都についで埼玉県の和光市、八潮市、春日部市。栃木県宇都宮市、千葉県市川市などからの参加者がいた。
午後6時から大広間で懇親会が始まった。乾盃が終わると会場はたちまち賑やかになった。ほとんどの同期生が職場を定年退職し、人生の第2ラウンドに挑戦しはじめている。友人が入り乱れて盃を交わしながらの話題の中心は、クラブ活動、クラス編成、余暇の過ごし方…。などである。
 私は1年生からバスケットボール部に所属し、2年生からレギュラーになった。当時の中体連は夏の大会と秋の大会に分かれており、夏はバレーボールや野球、卓球などの大会。秋はバスケットボールや陸上、体操などの種目の大会になっていた。
 春の学校行事にクラス対抗バレーボール大会があった。3年生になった私は、その大会で一丁前にスパイクを打っていた。それにバレー部の顧問の先生が目を付けた。バレー部にはO君という長身のスパイカーがいて破壊力のあるスパイクを打っていたが、前衛のブロックに弱点があった。スパイクもブロックもこなしている私に白羽の矢が立ったのである。ブロック要員としての助っ人だ。バスケ部の顧問の先生とバレー部の顧問が話し合って折り合いをつけたらしい。独断的で勝手な話である。私の考えも聞かないでの決定だった。仕方なくバレー部の練習に加わったが、それまでのブロッカーが補欠選手になった。つらかったが命令なので練習に励むしかなかった。バレー部は柴田郡大会で優勝し、柴田・刈田・伊具の3郡大会でも勝って県大会へ臨んだが、残念ながら1回戦で敗退した。
 そして、バスケ部へ戻ることになったが、こちらも留守の間に私のポジションに交替の選手が入って練習を続けていた。私が戻れば彼も補欠選手になる。つらかった。そして退部を申し出た。練習に行かなくなって1週間が過ぎたころ、バスケ部の3年生全員がわが家へやってきた。「バスケ部へ帰ってこい。」と口をそろえて言う。うれしかった。バスケ部も郡大会、3郡大会で優勝し県大会ではベスト8まで進んだ。そのバスケ部のS君が出席していた。懐かしい思い出話しをした。
 私は高校を卒業すると仙台市内の自動車修理工場に就職した。その後柴田町役場へ転職したが、仙台へ通勤していたころは、いつも彼と一緒に汽車(当時はまだ電化されていなかった。)に乗った。彼は文房具の卸売の会社に通勤していた。彼も転職して商事会社に勤務していたが停年退職し、悠々自適の生活である。
 クラスの編成については、同期生が集まるたびに話題になる。
 中学校の1年生と2年生のときは男女共学の5クラス編成だった。が、3年生になると男子生徒だけになって3クラス。女子生徒だけのクラスが2クラスという、驚くクラス編成になったのである。私がいた3年生1組は男子生徒が47名。男子生徒のクラスはほぼ同人数だった。女子生徒は34組が60名で35組が59名というマンモス学級になった。
なぜ、こんなことになったか?だが、当時、仙台市から船岡中学校へ赴任してきたO校長が“不純異性交遊(古い表現だなぁ…。)を心配したり、男女生徒間の交際を極端に嫌ったためらしい。ひどい人権の蹂躙だった。女子生徒のクラスは机の配置も窮屈で勉学にも支障がでた。そして、このクラス編成は1年間で改善された。私たちが中学3年生のときの1年間だけ、男女別々のクラスにしたのである。思春期の淡い恋心が芽ばえるたいせつな時期の中学3年生の男女が障壁で隔てられたのである。先生も不粋なことをやったものである。
 友人の余暇の過ごしかたは、さまざまだ。農家の畑を借りて菜園作りをしている同期生が多い。車に同情させてもらったS君は、白石市白川に畑がある。仙台市に住んでいる兄が宅地に購入した土地を借りて、家を建設するまでの間、菜園作りをするのだという。バレー部員だったM君は隣町の村田町小泉地区の畑を借り、軽トラックと小型の耕運機を購入しての本格的な野菜づくりである。M乳業(株)に勤務していたH君は、失業保険受給中に職業訓練校で植木職人の技術を修得した。仙台近郊の造園業の会社も手伝っているという。雨天は休みなので月に15日位の勤務になると言うが、庭木についての知識はベテランの職務のようだった。
 同期会は楽しく過ぎていった。小学校から中学校までの9年間を共に過ごした仲間たちだ。戦後の食糧難、物資不足の時代をくぐりぬけてきた。わが国の高度経済成長期には、その底辺を支えたのもこの仲間たちだ。深い縁(えにし)の絆で結ばれ、熱い友情がかよいあうのもあたりまえであろう。言葉には出さないが、みんな心に深手の傷跡の1つや2つやは持っているのである。
 翌12日(月)朝食のあと自由解散になった。女性全員は“二本松の菊人形”見物に出発した。数台の車に分乗してだが、もちろん男性の世話人が車を提供し運転して行った。「じゃあ、なぁ。」「またね。」明日の朝、また学校で会えるかのような挨拶をして去って行った。さわやかな別れだった。
 数日後、車に同情させてくれたS君が菜園で収穫したばかりの青首大根を持ってきてくれた。八百屋の店頭へ並べても遜色のない出来栄えの大根である。甘味のゆたかな大根をおいしくいただいた。

青首の大根積みし軽トラックの畑去りゆかば冬隣りなり



 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭