東北本線の長町駅をよく利用する。柴田町の船岡駅で下りの電車に乗ると約25分。仙台駅の1つ手前の駅である。駅舎はかなり古い。私が高校を卒業し、仙台市内の自動車修理工場に通勤していたころと全く同じで、くすんで黒っぽく汚れた感じがする。蒸気機関車が走っていたころの煙で焼けたのである。
先日、帰宅のために電車を待っている間“この秋のおすすめ”という旅行のリーフとパンフを見ていた。改札口のすぐそばに並べてある。東北地方の旅を紹介しているものを数枚もらってきた。 ○駅長オススメの“小さな旅(山形、宮城、福島)全33コース” ○もりおか麺恋(めんこい)キャンペーン ○いわて三陸夢紀行 ○奥州平泉史跡散策 などの、魅力ある旅路である。 ○もりおか麺恋キャンペーンのパンフを開くと、盛岡市内の地図におすすめの食事どころや買物のお店が分かりやすく記入してあった。かつて盛岡を訪ねたとき、中津川にかかる中の橋を渡ってすぐの“そば処東屋”で「わんこそば」を食べたことをおもいだした。Fが“そば処東屋”である。 これら多くのリーフやパンフにまじって“SLばんだい物語”があった。発行先はJR東日本だが、ホームページのアドレスはhttp://www.jrmiigata.co.jp/slbanetsu/slbanetsu.htmである。 このパンフの発見(おおげさだが…。)は、うれしかった。 私はSL(stem locomotive)ファンである。雪の山野を走る映像などを目にすると、見に行きたくなってしまう。子供のころ、この町には米軍が進駐していた。この米軍への物資の輸送のためか、船岡駅によく貨物列車が停車していた。D51の二重連もあった。夏休みになると毎日白石川へ水泳ぎに行く。途中の船岡駅に貨物列車が停車していると先頭の機関車のそばまで行って、あかず見惚れていた。あの思い巨体が魅力だった。“力”のかたまりのように思えて<男らしいなぁ…。>とおもった。 蒸気機関車の重量は約120トンある。機関手と助手が運転室にいる。顎紐(あごひも)をかけた機関手がメーターを点検し、助手は炭水車から小形のスコップで石炭をすくい、火室へ放り込む。巨大な蒸気機関車を操ることが神業のようで、二人を羨望し尊敬した。 「ポー」と汽笛が鳴る。「シュツ、シュツ、シュツ」と蒸気を吐きながら動輪が回りはじめると心がおどった。動輪と動輪を結ぶ主連棒と連結棒が2本の腕のようだ。「よいしょ、よいしょ」と貨車を引っぱるさまは、何度見てもあきなかった。黒煙が風になびく。それが自分の方に流れてくると、酸っぱいような、こげくささが]鼻をつき、セキと涙が出てくる。だが、蒸気機関車の力が自分にも伝わってくるような気持ちがしてうれしかった。 <SLばんえつ物語>は、磐越西線(会津若松〜新津)を走るC57180の物語だ。1946年8月に製造されたこの蒸気機関車は、初め新潟機関区に配属される。その後、1963年に新津機関区に異動になる。1969年に引退するまで、信越、羽後、磐越西線で活躍した。 さて、これからだが、この機関車は、おもわぬ運命をたどる。 “鉄道の町新津”の人たちや国鉄関係者から「なんとかC57180を後世に残せないだろうか?」との声が出る。新津市が保存のために乗り出した。保存先が新津小学校の校庭に決まる。ところが解体して搬送し、再び組み立てるには莫大な経費が必要だった。そこで新津駅から小学校まで線路を仮設してC57180を走らせることになる。が、市内に仮設の線路を走らせるのはたいへんなことである。 1969年10月21日、C57180は煙をはきながら、ゆっくり新津小学校の校庭に到着した。市民と関係者の熱意が、難事業を達成させた。それから、30年間「新津市蒸気機関車保存協会」の手によって、この機関車は念入りに手入れをされて保存されてきた。 1998年3月になると、今度は「C57480を走らせる会」が発足する。全国各地でSLが復活し、SLブームがやってきていた。C57480は解体されて大宮工場で整備されることになった。1999年3月に試験走行。1999年4月29日「SLばんえつ物語」と命名されたC57480は再び磐越西線を走り出すのだ。 この蒸気機関車が誕生してから55年。この歳月は、わが国の復興期と重なる。敗戦の混乱期から復興の道をひたむきに歩み続けてきた人々の象徴のようなものが、このSLにはある。それがC57480の生命を絶やしてはならない、という人々のおもいになったのであろう。 このリーフには復活物語のほかに沿線マップやSL大百科図鑑、沿線を流れる阿賀川の風土記、おトクなきっぷ情報…などもあって、SLファンにはたまらない資料である。 会津若松駅と新津駅を3時間20分で走る「SLばんえつ物語号」に乗りたくて、たまらなくなってきた。
三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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