これらは気鋭の中堅歌人「小池光」氏の短歌である。なぜ小池光氏か?は、氏がこの町(宮城県柴田町船岡の出身者であり)私が氏の短歌の熱烈なファンだからである。日頃は、短歌に縁の無い方にも氏の短歌を紹介したくなり、この原稿を書きはじめた。私は氏のご両親にたいへんお世話になったっている。…ことも小池光氏に拘る理由のひとつである。氏の父は第8回の直木賞作家・大池唯雄(本名・小池唯雄)先生であり、私の文学の恩師である。
私は20歳代の後半から30歳代の前半の8年間、この町の広報紙の編集を担当した。当時、柴田町公民館長として、作家として多忙だった先生の書斎へ毎月、印刷があがったばかりの広報紙を持参しては批評していただいた。文章の厳しい指導もうけた。
公民館の図書室を頻繁に訪れていた私に読書のアドバイスもしてくれた。 ある日、書斎を訪れると、大池先生は手鏡を持ち、小さな画用紙に自分の顔の悪戯書きをしていた。黒縁の眼鏡を太く書き、青々と剃ったおとがいを荒々しく斜線で塗りつぶした。一見すると野武士の風貌である。よく似ている。「それを私にください。」と頼むと、「ああ旅人よ旅人よ道を急ぐことなかれ―」と河上肇先生の言葉を書き添えてサインしてくれた。先生の著書「史談セント・ヘレナの日本人」(朝日新聞社発行)の裏表紙に貼り付けてたいせつに保存している。 氏の母・小池恭さんは、高校を卒業し仙台市内の自動車修理工場に勤務していた私に、柴田町役場の就職試験を受けるように、と熱心に勧めてくれた方である。恭さんも役場に勤めており、母子福祉の事務を担当していた。私が母子家庭に育ったことが出合いの契機だった。 私は町役場の試験に合格し、恭さんとも一緒に事務をとった。 大池先生が地元紙の河北新報に「炎の時代」を連載するようになって執筆活動が多忙になり、恭さんは役場を退職した。昭和45年に大池先生が急逝された。そして恭さんは埼玉県蓮田市に住む光氏と生活をともにされるようになったのである。 前置きが長くなたったが、小池光氏は昭和22年6月、このご両親のもとに生誕された。2人兄弟の長男である。 柴田町大字船岡字内小路(現・柴田町船岡南西一丁目)の生家の南には町の鎮守・白鳥神社がある。西には伊達騒動の首謀とされる原田甲斐宗輔(山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では忠臣に描かれている。)の居館跡がある。桜で有名な船岡城址公園である。北に7〜8分も歩くと蔵王連峰を水源にする白石川の清流(氏が子供のころは…だが。)が合った。 氏の生家は閑静な自然環境に恵まれた地にあった。 現在、小池光氏は蓮田市に住み、高校の物理の教諭をしている。そして、短歌結社・短歌人会の編集委員である。すでに第1回の寺山修司賞を受賞した。歌人の大滝貞一氏は小池氏について「作家、評論、パネラー、新聞選歌、結社誌編集など多角的な活躍をした超多忙な一人出会った。」と平成13年版・短歌年鑑(角川書店発行)角川書店発行)の“作品点描8”に書いている。 氏はこれまでに5冊の歌集を世に出している。「バルサの翼(昭和53年刊)」「廃駅(昭和57年刊)」「日々の思い出」「草の庭(平成7年刊)」「静物(平成12年刊)」である。 私はこの短文で、第1歌集「バルサの翼」から第5歌集「静物」の秀歌のいくつかを紹介しようとおもう。無謀かもしれないが「氏の短歌の変貌についても比較できれば…と考えた。とにかく、小池光氏の概要というか、あらまし、というか、エキスのようなものをお知らせしたい。 列記した秀歌は、私が選んだものではない。月刊誌「短歌」のさまざまな特集に取り上げられたものから、さらに私が好きな短歌をならべた。多くを記すことができないのが残念である。
「小池光の歌特有のおかしみは、凝らない言葉のやさしさに比して、内容の上でいたく高度な要求をする。普通なら悲しみにつながりそうにないところに悲しみの回路を開き、“あはれ”を導く。この小池光らしさは第1歌集“バルサの翼”によって登場したときからのものではない。変貌については多々論じられたはずだけれど、表現の手法がガラッと変る中で、変らなかった印象としての含蓄の色合いはその後なお濃くなってきたようにわたしは思ってきた。」とは、歌人の今野寿美氏の解説(月刊誌・短歌 平成11年8月号・特集「現代の男性歌人たち」)である。
歌人の小高賢氏は「現代短歌の鑑賞101」(新書館発行)で「短歌特有の深刻なポーズがいつのまにか自己肯定になってしまう。そのかたわらを風俗や口語の力によってすりぬけてしまう若手歌人。(中略)和歌の伝統を引き継いだ秀歌性を攪乱し、現実のずれを作品化することによって読み手の内側になにか刻印を残す。それが彼の狙いである。」とも評する。
これらの歌に私は船岡字内小路にあった氏の生家、あるいは周囲の風景が重なる。いま、私は昭和45年5月27日に急逝された大池唯雄先生の柴田町教育委員会葬をおもいだしている。先生の葬儀は5月30日、午後1時から船岡小学校の屋内体育館で営まれた。先生の遺骨を胸に抱いていた光氏(当時24歳)の姿が忘れられない。つぎは、昨年刊行された第5歌集「静物」からの6首である。
たいへん大雑把な紹介になってしまったが、これからも、ときには小池光氏の短歌について書きたいとおもっている。
今年は柿が豊作らしい。枝もたわわである。
三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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