NO-33

いかずちの威厳のごとき雲頭を串刺しにする鋼(こう)の稲妻

扇風機の分解なして翼洗らい油注したり暑熱討たむと

 私の家の真向かいに平家があり、その1軒向こうは2階家だ。私の部屋からは、視線を上向きにしないと空が見えない。私は、夏の積乱雲が好きである。入道雲が力瘤のように盛りあがると、どこまで昇ってゆくのだろう?…と見守ってしまう。
 ことしは7月20日(海の記念日)に東北南部(宮城、福島、山形)の梅雨が明けた。715日〜20日までは天候が不安定で、午後はきまって雷鳴がとどろき、稲妻が走って激しい雷雨になった。その予兆の雄大な積雲(入道雲)を串刺しにする稲妻を見た。白金色の細い剣に似ていて、航空宇宙研究所(宮城県角田市)の方角を天上から地に突き刺さるように鋭く落ちた。
 いよいよ夏本番。毎年のことで家中の扇風機を集めて解体掃除した。幾分でも清涼の気分を味わいたいし、機械音(ノイズ)も少なくしたいのだ。まずネットを外して回転翼を洗剤であらい、モーターの心棒(回転軸)に自転車用の油を注す。これでノイズはかなり減少する。回転翼を心棒に固定する螺子(ねじ)だが、手で締める雌(め)ねじは左回り(時計とは逆に回る)だ。翼が右に回るので使用中に緩まないような工夫だが<うまくできてるなー…>と、私は毎年感心する。扇風機の使用後に掃除して片付ければ良いのだが、面倒で<来年の夏に…。>となる。
電話が鳴った。
「中学校の同期会の世話人会を開催するから出席してくれ」と言う。今回の幹事は中学校長を定年退職したH氏(宮城県白石市在住)である。私は、昭和30年(1955年)に柴田町の船岡中学校を卒業した。同期生は約250名で、すでに10数名の物故者がいる。同期会の正式な名称は“昭和30年船岡中学校第8回卒業生同期会”という。
前回は還暦祝いを兼ねて平成111月に開催した。町の鎮守の白鳥神社でお祓いをしたあと遠刈田温泉(宮城県蔵王町)に1泊した。じつは、私は長く同期会を欠席してきた。体調が不良で同期生に会うのがつらかった。還暦祝いの会も欠席している。この同期会の初代の幹事は私だった。第1回目は成人式の日に開催した。はるかに42年も前のことである。
私が中学校を卒業した当時は中卒で就職する者がかなりいた。集団就職で上京する者も多かった。私は高卒を卒業すると自動車の電装品の修理工場に就職した。1年半修理工をしたあと、この町役場に転職した。あのころ、大学へ進学した同期生は2030%ぐらいもあっただろうか?…。
 成人式の式典の午後に同期会を開こう、ということになったが、案内状を発送するために必要な名簿が無かった。中学校の卒業名簿をたよりに同期生の生家に電話し、あるいは訪問して住所を確認した。船岡駅前通りに“更科”という食堂(現在はコンビニになっている。)があって、その2階で胸を張り20歳の祝酒を飲んだ。
 その後は男の42歳の厄年に開催した。やはり神社でお祓いしたあと、町内の綜合結婚式場で祝宴を開いた。これも私が幹事を担当した。小中学校の恩師を招き、二次会は恩師のM先生宅、三次会は同期生のY氏宅と友人が肩を組んで町内を歩き回った。
 それから20年もの間、私は同期会から遠ざかった。
 42歳の同期会を契機に4年ごとに会をやろう。ということになったのだから、もう5回ぐらい同期会を欠席している。(還暦祝いからは2年ごとに会を開くことになったらしい。)
 健康になった今、久しぶりに友人たちに会いたいとおもった。
 719日(木)午後7時から町内の“雀すし”で世話人会が開かれた。男女の世話人25名が出席。懐かしい顔触れだった。ほとんどの世話人は職場を定年退職して悠々自適な生活をしている。なかには、町議会議員(前議長)や町の教育長、行政区長や印刷会社の経営者、スポーツ用品店の店長などとして活躍しているバリバリの現役組もいる。
 同期会は1111日〜12日に福島県の飯坂温泉の旅館で開催することに決定した。東京方面から新幹線で駆け付けてくる会員の利便を考えての会場設定である。
 そして宴会になった。
 すると、自宅隣の畑を借りて菜園づくりに熱中している者、職業訓練センターのパソコン教室で勉強している者、カラオケのグループで演歌を楽しんでいる者、ダンスの練習に興じている者と、それぞれが意欲的に趣味や娯楽に取り組んでいた。
 ほぼ40年間、この社会を支えてきた仲間が人生の後半戦の勝負に挑みはじめたのである。「目的はいかに楽しく面白く健康に生きてゆくか。」である。今春の町議会議員選挙には同期生3名が立候補し、2名が落選したが、この2名も次回(4年後)の町議選に再挑戦すると意気軒昴だった。“熱中するもの”を持っている同期生は生き生きしていた。楽しい話題に相槌をうちながらのお酒は旨かった。
 私も短歌を作りはじめて丸3年が過ぎた。私は四季の移ろいの中で心に響いてくるものを短歌の詠(よ)んできた。短歌を分類すれば“自然詠(しぜんえい)”という範ちゅうに属する歌が多いのだが、私はいま、自分の短歌に革新の必要性を強く感じている。私の短歌は「現代の自然詠だろうか?」との疑問が有るのだ。花鳥風月を詠んでいると「大正時代や昭和の初期でも、この短歌を作ることができたのではなかろうか」とおもうことがある
 私の心の中を過ぎてゆく四季は、地球の温暖化など環境問題が心配され、悪影響が確かであることが認識されている現代の春夏秋冬なのである。
 意欲的な同期生諸氏は私を鼓舞してくれた。私も問題意識をもって短歌に精進しなければならないとおもう。
 夏の早朝のさわやかな風の中を散策するのは気持ちがいい。今朝も午前4時から約1時間、たっぷりと清涼を吸いこんできた。短歌の素材も手に入れてきた。
 調理法と味付けが問題なのだが。

反照は真白く森の興にあり老人ホームめざめてゆきぬ

連打するドラムのごとく油蝉梅雨あけの杉森に鳴きたつ



 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭




 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭