NO-29

蒼古(そうこ)なる堂宇(どうう)は森の濃みどりのどまんなかなり匂いたつ土

農民の裔(えい)なるわが血みちのくの渺茫(びょうぼう)山河もくまなく緑

 私の菩提寺である妙高山大光寺(柴田町船岡)で本堂の屋根の雨漏りがひどくなり、山門の屋根瓦もずれてきたために修繕工事を進めている。その工事が終わり、先日寺の護寺会の役員(私もその一人である。)や関係者が招待されて落慶法要が営まれた。
 祝賀の宴になり、献盃の音頭を護寺会の副会長の長老がとった。そのとき「われわれの檀家の本堂と山門の修繕がめでたく完成し、誠にうれしく安心しました」と感慨ぶかげに語られた。長老は“山門も本堂も法要会館も檀家の所有物なのだ”十分な修繕をしなければならないと、当然至極におもわれるのであった。私は、どちらかといえば、これらを方丈様の所有物のように思っていたので、考えさせられるものがあった。
 この寺院では、平成5年に約150坪の法要会館を建設した。工事費は1億9857万円で、この経費は、約1000軒の檀家の浄財を寄せあって再建したのである。このたびの屋根の修繕工事は1200万円も檀家が負担した。
大光寺の史料によれば、この寺院は瑚海仲柵禅師(文明元年・1469年没)によって創建されたという。文政6年(1823年)に火災で焼失したが、約100年後の昭和元年(大正15年・1926年)に169戸の檀家が4952円の浄財を寄せあって再建したのである。それが現存する本堂で約100坪の広さを持ち、堅固な造作で75年間の風雪にも、びくともしていない。
 落慶法要の席にいて、169戸の檀家のご苦労をおもっていた。そして、4952円の建設費が現在ではいかほどの金額になり、檀家1戸あたりの負担額がいくらになるのかを識りたくなった。そこで柴田町史を資料に、現在の金額に換算しようとしたが、確たるデータは無かった。が、いろいろ拾い集めたデータで計算してみた。
 @大正10年(1921年)の船岡村の歳出は総額は33165円であった。(柴田町町史通史編U・表13-9・歳出の推移)
 A大正5年(1916年)の船岡村の戸数と人口は、戸数が505戸で人口は3656人であった。(表12-69・船岡村の戸数および人口の推移)
 Bそこで、大正10年の船岡村の歳出総額に対して本堂の建設費が何%になるかを計算した。
  本堂の建設費4952円:大正10年の船岡村の歳出総額33165円=14.93%である。
 C平成13年度の柴田町の一般会計の予算総額は1033624万円である。(広報しばた4月号による。)
 D予算総額から船岡地区分を分離しなければならないが、不可能なので船岡地区と槻木地区で折半すると、1033624万円÷2地区=516812万円になる。
      516812万円÷14.93%=76812万円になる。
 E昭和元年の本堂の建設費4952円を現在の金額に換算(大変なこじつけにもおもえるが…。)すると、約77160万円になったのである。ただし、平成5年の法要会館建設費が19857万円だったことを考えると、現在本堂を建設するには、これに近い金額になりそうな気もする。
 Fそこで檀家1戸あたりの負担額だが、77160万円÷169戸=4565千円という大金になるのである。私は分割で5年払いぐらいにしてもらわなければ納入できない。
 中には多額の寄付をした富豪もいたであろうが、困窮の生活の中から、なんとか浄財を寄付した家庭もあったことだろう。大正12年(1923年)の関東大震災によってわが国の経済は大きな打撃をうけ、昭和元年ごろは、不況が地方にも及んでいたのである。現世では貧困でも正直に勤勉に働いて浄財を寄付し、建立した本堂でお釈迦さまに手を合わせれば極楽往生できるのだと檀徒は信じていたのであろう。そして、必ずや、この人々は極楽往生したと私は信ずる。
 私は40歳代の後半から50代の前半にかけて、生きてゆくことに自信を失くしていた。毎日、出口の無いトンネルの中を彷徨しているような気持ちでいた。懐中には、携帯用の般若心経(はんにゃしんぎょう)と修証義(しゅしょうぎ)の経本を持参し、暇をみつけては読んだ。仏具店へ行き、永平寺の僧侶による読経の録音テープを購入し、夜間に聞きながら座禅も組んだ。
 しかし、私の心の平安を得ることができなかった。いま考えてみれば、それは当然のことであった。苦しまぎれの仏教の学習であり、早く苦悩から逃れたいためのあせりで、一夜漬けで仏教の勉強をしたようなものであった。それは、懸命な日々であったのだが…。
 仏教は、そもそも勉学によってその深層に到達できるというものではあるまい。和尚さまに諭しみちびかれ、説法をうけながら信仰心をふかめてお釈迦さまに帰依して、その救いを求めるべきものであろう。あるいは父母や祖父母に語り諭される仏さまの教えもある。「清く正しく真っ当に生きればお釈迦さまに救われると」と。
 昭和元年、妙高山大光寺を再建した169戸の檀家のみなさんには深い信仰心があった。だからこそ、大事業を完成したのである。ひるがえって、私は、心のみちしるべとなるような仏さまの教えをいまだ識らない。信仰心も薄い。このままでは、彼岸へ旅立つ日に合掌しても、お釈迦さまは手をさしのべてはくれないだろう。そのときは、火葬場で重油をあびながら火となり煙になり、白骨となって土に帰るしかない。それが私の終(つい)の道になりそうな気がしている。
 青葉若葉のあざやかな季節に、救いの無い話で恐縮である。

静寂な葉桜のなか郭公(かんこどり)あかるき風の律になきたり