4月1日「柴田町さくらの会」が今年の植樹をした。船岡城址公園と葛岡公園に樹齢5歳の染井吉野42本を植えた。昭和53年にスタートこの会が、これまで植えた桜の累計は1294本になる。この日は会員20名が植樹にあたったと…。これは河北新報の記事をかいつまんだものである。私もこの会のメンバーなのだが、活動は若い人たちにお願いして傍観のさまでいる。良い姿勢ではないな、と自覚はしているのだが…。 この会の創設に私は深くかかわった。提唱者のひとりだったし、発足当時は事務局も担当した。
私が生まれて間もなく、父母がいわき市(旧内郷村)からこの町へ移り住んだ。物心ついたときには、この町の桜花に魅了されていたようにおもう。子供のころ、私の家は船岡城址(四保山)公園のそばにあった。春の訪れを告げて桜が咲きはじめると、近所の子どもたちと一緒に城址にのぼった。三の丸に立つと、淡紅の染井吉野が空をおおうように咲き盛っている。小道をたどって頂上の二の丸(子供のころは高射砲の砲台が有った。)へゆくと、白石川の土手の「一目千本桜と船岡城址公園の桜、それに冠雪の蔵王連峰」を望むことができた。<この風景は日本一だぞ>と胸を張っておもったものだった。 染井吉野の寿命は70歳ぐらいだろうと言われている。桜の種類の中では短命なのだ。いつからか、この町の桜樹を私たちの時代に絶やしてしまうわけにはいかないぞ、とおもいはじめた。東京在住の美術作家(同級生)も桜のことを心配していた。次の世代の子供たちへ、なんとか桜を残してやりたかった。 さて、それならば、どんな方法で苗木を植えようか?と友人たちと考えた。私の30代後半から40代の初めにかけてのことである。お金は無い。2〜3年は模索の日々が続いた。“ボランティア”という言葉など聞いたことも無かったころのことである。誰からともなく「記念の木を植えたらどうだろうか?」との言葉が出た。この一言が会の誕生と成功につながった。誕生、入学、卒業、就職、結婚、あるいは転勤…と、町内外のみなさんの家族のいろいろな記念の桜の苗木を植えることにした。特別会員会費(苗木を1本植えるために必要な経費)をいただいて植えるのだが、労力奉仕は会員がやる。支柱に「氏名」と「○○○記念」と書いたプレートもつけてあげた(現在は杭にNOプレート) 会長を私の菩提寺の住職さんが引き受けてくれて、会の社会的な信用も高まった。いらい、毎年約50本の染井吉野を植えてきた。昭和53年に町内のレクリエーション施設の「太陽の村」に植えた桜は生育環境が良いためか、樹高と枝張りが約15mにも成長し、壮年の花を咲かせている。 行政も桜の育成と管理に力を入れはじめた。私はこれからも心置きなく桜花の短歌を詠み続けることができる。うれしいことである。
NHKのBS放送で「21世紀に残したい日本の風景」という番組が企画され、好評のうちに放映が終った。視聴者参加の番組で、昨年末(2000年)から今年(2001年)の3月ごろまで放映された長い番組だった。視聴者からNHKに寄せられたハガキや手紙の数を集計し、日本の「美しい風景」に順位をつけたのである。 この「美しい風景」の全国11位に白石城(宮城県白石市。私の住んでいる町とは同じ広域行政圏内にある。)がランクされた。東北ブロックではなんと第3位を獲得したのである。平成7年に建設されたばかりのこのお城が全国で第11位になったと聞いたときは、正直いって驚いた。そしてうれしくおもった。 周囲の桜が咲きはじめると、白亜のお城がひときわ輝き威容を誇示する。天守閣からの眺望もみごとで四季ごとに趣のある風景を見せる。蔵王連峰の不忘山が目前に迫り、蔵王を水源にする白石川が細い帯のようにはるかに蛇行してゆく。 市民の多くがこのお城を誇りにおもい、ハガキを書き、手紙をしたためたのであろう。<市の宝物を全国のみなさんに知ってもらい、見に来てもらいたい>との熱意が実ったのである。市の商工観光課や白石城の関係者、商工会議所も音頭をとったらしい。この情報社会にチャンスを見逃さずタイムリーを放ったのである。お金を使わないPR戦略は、なんとも見事である。少なくとも1000万人はこの番組をみたはずである。 美しい風景やすばらしい眺望は、その自冶体に住んでいる住民だけのものではない。大袈裟にいえば、この美しい青い惑星に住む人類共有の財産である。自慢できるふるさとの風景は、おおいにPRして、多くの人々と感動を共有したいものである。“船岡城址公園の桜と白石川一目千本桜、それに冠雪の蔵王連峰”は「21世紀に残したい日本の風景」で放映されても、他の優れた風景に決して見劣りはしないとおもった。私は全国の上位にランキングされるべき風景だと確信している。 いま、JR東日本の各駅に「一目千本桜」のポスターが掲示されている。作成したのは隣町の大河原町である。じつは「白石川堤の一目千本桜」のほぼ半数の桜樹は、わが柴田町の区域内に有るのである。そして、わが町の船岡城址公園から俯瞰しなければ、白石川の土手につらなる薄紅の桜花のラインに感動することもできないのだ。わが柴田町と大河原町が共同でポスターを作成すれば、より完成度の高い、見る人々にとっても親切な、PR効果の充分なポスターを作成することができたのに…。と、おもいながら、駅の跨線橋の壁に貼ってあるものを見てきた。 まさに清麗な山桜と妖艶な染井吉野がわが町の山野を染めている。1週間も過ぎると、おびただしい花びらが、わが家の庭にも降りそそぐ。 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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