NO-25

塩あじの葉の香ばしく桜餅まちの菓子舗は花のあかるさ

  東北本線の長町駅(船岡駅から下りの電車に乗ると、仙台駅の1つ手前の駅になる。)をよく利用している。古い駅舎で乗降客も多い。駅前広場は狭く、タクシーが67台も待機すると車で埋まっているように見える。広場のすぐ向こうを南北に広い街路が通り、これにT字(形)に交差する大通りが西へ伸びている。広場を高架で新幹線が走っている。
 徒歩で56分も行くと地下鉄の駅だ。高層のマンションも建設されて駅周辺はなかなかの発展ぶりだが、駅前に立つと、雑然とした街の印象を受ける。その雑念は郷愁を感じさせるかつての横丁が持っていたものである。
 郊外型のショッピングセンターなどが無かったころのことだが、どこの町にも○○横丁とか××通りという商店街があった。魚屋士さんや八百屋さん、豆腐屋さんに雑貨屋さんなどが雑然と並んでいたものである。割烹着すがたのお母さんたちが買物かごを下げて歩いた。……あの雰囲気があるのだ。
 というのは、交差点の北側の一角に、青果店や和菓子の老舗、ミシン販売店や食堂、飲食店が並んでいて、その界隈に郷愁の雰囲気がただよっているのである。交差点の手前の宝くじ売場やコンビニもその“郷愁の雰囲気”づくりに役立っている。私は所用が済むと、この界隈をゆっくり歩く。
 青果店には季節の野菜が店頭(一部は歩道にはみ出ている。)に並び、店内には外国産の高級果実もある。いや“季節の野菜”ではなく“季節外の野菜”が多い。ビニール袋に入った胡瓜(きゅうり)や茄子(なす)それにトマトはいつでもある。<筍の季節はいつだったっけ>とおもってしまう。筍の野菜があった。春キャベツはみずみずしくて、千切りにして食べたくなる。雪ちぢれ菜の濃緑もまだまだ豊富だ。パック入りのたらの芽や蕗のとうもあってうれしくなった。
 私の家から自転車で15分ばかりの里山の間(あわい)に灌漑用水の沼があって、周囲の土手に蕗のとうが沢山萌え出る。<そろそろ摘みに行かなければ…>とおもいながら店内を歩いていると「なにかお求めですか?」と店員から声がかかった。
 青菓店を出ると隣が和菓子の老舗である。ガラス窓に「さくら餅」と墨くろぐろに書いた張り紙があった。ショーケースにうまそうに並んでいる。みやげに買った。帰宅してさっそく妻と賞味した。私は葉ごと食べてしまう。うすい塩味の葉の香りは、まさに春である。この葉は“大島桜”の葉を塩漬けにしたものである。
 20年ばかり前になるが、この町の桜の保護と育成を目的に友人たちと「柴田町さくらの会」を作った。そのとき、桜についていろいろ学習した。桜の“花から葉、樹皮や材”を利用して“さくら産業おこし”ができないだろうか?と考えたのだが、実現したものは無い。そのとき、桜餅の勉強もした。
 桜餅は@小麦粉と白玉粉を水で溶き、それに砂糖と卵白を加えて練り上げる。食紅で色づけし、薄く伸ばして弱火で焼く。Aできた皮で小豆(あずき)あんを包む。Bそれを塩漬けした大島桜の葉で巻くのである。
 東京の隅田川の東岸、向島にある長命寺の桜餅は有名で、江戸時代(1717年)から作り始めたという。このあたりの桜餅は1枚の葉で巻いてあるが、長命寺の桜餅は2枚でまくのだという。
 桜餅を食べていると、私の春の原風景が薄紅色にそまった。私の原風景は“船岡城址公園と白石川堤の桜、それに白雪を冠した蔵王連峰である。

やわらかな庭土突きし方寸の水仙の芽はよく朝二寸

 わが家の狭庭にも若芽が萌えはじめた。水仙が早い。やわらかな土から突き出るように尖った芽をのぞかせる。そして、たちまち、一寸二寸と伸びる。芝も萌えはじめたが、雑草も出はじめた。毎年、雑草に困らせられる。密生する芝に負けずに生きてゆくのだから、生命力はしたたかである。根を深く広範囲に張って、素手ではとても引き抜けなくなる。
 昨年「除草フォーク・草取り物語」という道具を買ってきた。長さが20センチで幅2センチの鋼鉄製で、先端に2.5センチの切り込みがあって先がとがらせてある。ハサミの先を2センチぐらい開いたような形だ。これを雑草の根に突き刺す。道具のまん中の地面に接触するところにとっきがあって梃子(てこ)になっているのだ。取っ手をグイと地面に押しつけると、雑草が根こそぎ抜けてくる。 うまい道具を作る人がいるものだと感心している。
 庭の樹木に来ていた鵯(ひよどり)と椋鳥(むくどり)がいつのまにか姿を消した。渡りが始まったのか?高山へ去ったのだろうか?…。と、さびしくおもっていたが、ここ数日、鶫(つぐみ)が来ている。
 庭に小さな社を設け、地内明神(じないみょうじん)さまを祀っている。先祖から私が受け継いだものである。毎朝ご飯を供えて家族の平安を祈っている。小鳥たちは、これを目当てにやってくる。雀にまじって来る鶫だが、まもなくシベリヤ方面へ旅立つのであろう。
 待たれるのは桜の開花である。

四本(よもと)なる染井吉野の梢(うれ)そまり三角公園まぶしくなりぬ



 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭