「ズン」と鈍い音がした。重量のある物体がぶつかりあう力のこもった音が響いてきた。その日、会社へ午後1時まで出勤しなければならない息子が12時に家の駐車場を出発して行った。間も無く衝撃音で、瞬間的に出会い頭の事故を起こしたな、とおもった。
「車をぶっつけてしまった」と徒歩で息子が戻ってきた。とっさに彼の全身を見回したが怪我の様子は無い。相手の怪我が心配になった。わが家は幅4mの町道(南から北へ通じている。)に、西側から接続する私道に面して建つ。息子が私道から町道へ左折(北の方向へ)しようとしたところへ軽自動車(ボックスタイプ)が走行してきて接触したのだ。町内にある仙台大学3年生のB君が運転していた。幸いに彼も無事である。 息子の車(ニッサン・Be−1という骨董品のような車)のバンパの右端がボックスカーの右の横っ腹をこすった。後方へ引き戸のように開閉する方式のドアが、後方まで引っ掻かれたように傷が付いている。深く抉ったようにも見える。息子の車にはバンパに掠り傷は有るが、注意しなければ判別できない程度の傷だ。ヘッドライトの上部にかすかに相手車の塗装色(濃緑)が付着していた。バンパがいかに頑丈に作られているかを改めて知った。 <パトカーが来て、面倒な事故処理になるんだろうな…。>と、おもってしまった。が、“おやじ”なのだ。息子の不祥事の処理をしなければならない。 まず。宮城県警大河原署柴田警部派出所へ電話した。警察官が「双方の車は走行できますか?」と聞く。ええ、と答えると「お互いに車を運転して警察まで来てください」という。おどろいた。事故現場の検証が無い。小さな事故が多発していて対応しきれないらしい。 派出所へ着くと、警察官が被害の“さま”を一瞥(のようにおもった。)し、町内の地図を広げた。私が事故の説明を始めると「運転者でない方は車の中で待っていて下さい」と、追い払われてしまった。おもえば、まったく私主導の事故処理になっている。午後1時まで出社しなければならない息子が気になっていた。息子は疾うに会社へ連絡していたのだが…。 修理を友人が社長のFオートサービスへ依頼した。B君の車の損傷を調べた社長は、ドアを交換しなければならないと言う。約20万円の修理代になるだろうと見込んだ。事務室で息子の任意保険の書類をコピーした社長が、B君へ「あんたにも過失がある。任意保険の書類をコピーさせてくれ」と切り出した。<えっ>と、びっくりした。この事故は100%息子に過失があるとおもっていた。B君の車も走行中の事故であり、前方不注意なのだという。 私は運転免許証を持たないので気付かなかったが、注意して運転していれば事故は避けられたと言う。B君も、自分に過失があるとは考えていなっかたらしく、しぶしぶ書類を持参してきた。息子はN火災保険に加入しており、B君はS農業協同組合の共済保険であった。社長にB君の代車を依頼し、一日も早い修理をお願いした。息子はバンパの傷をそのままにしておくという。 息子が出社したので、保険会社と農協へは私が電話で事故の報告をした。当然Fオートサービスからも連絡はいくのだが、詳しく事故の様子を説明しておいた。その夜、B君から不満がある、という電話がきた。彼もS農協の任意保険担当者へ電話したらしい。で、「修理代は7:3ぐらいの負担割合になるだろう」と言われ、納得できないのだと。かりに、修理代を200,000円とすると 200,000円×0.3=60,000円で、S農協が6万円の負担になる。と言われたらしい。 「自分には3割も過失があるとはおもえない」と言いはる。S農協の担当者は、私の事故報告の内容をベースに負担割合を3割ぐらいと判断し、B君に説明したらしいのである。私がB君の過失を大袈裟に報告したと誤解している。これには困った。素人の私が、保険の負担割合の駆け引きなど出来るわけが無いのだが、B君の誤解は私への不信にもつながっているようであった。とにかく、N火災保険の担当者と相談することにして電話を切った。 翌日「N火災保険の担当者とS農協の担当者が話し合って決定しますから」ということになったが、それから、なんと20日間も保険会社から音沙汰が無かったのである。FオートサービスではB君の車の修理が終ろうとしていた。3月になると大学が休みになり、彼は長野へ帰省するという。Fオートサービスからは事故当事者双方捺印の示談書が無いと保険会社から修理代金がもらえないとも言われた。 黙っているわけにはいかなくなった。電話をかけまくった。保険に加入するときの手続きは至って簡単だ。が、いざ保障してもらおうというときの保険会社の対応の遅さには呆れ返る。2月はじめに事故が発生し、5日後にはN火災保険仙台支社へ必要書類を送付した。その書類が手付かずになっていた。保険会社と農協との協議もなされていなかった。<このやろうー>である。躍起になり、声も荒げた。私の渡世術はいつも穏やかすぎる。なめられていた。ときには騒ぎ立てることも必要である。 翌日には負担割合が8:2になった連絡があり、示談書も送られてきた。B君は負担割合に納得し、修理の終了した車で長野へ帰省した。私と息子は清酒1本を携えてFオートサービスへ御礼行ってきた。 結果的には息子が自分で後始末をしなければならない事故処理を私が全てやってしまった。いま、息子は朝7時に出勤し、帰宅は夜9時ごろである。遅い時は11時を過ぎる。休日は、ほとんど寝てすごす。会社は大変な状況らしい。不況の風が吹き荒れているのである。そんな彼のために、たまには親父が出しゃばるのもいいだろう…とおもうこのごろである。
三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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