注意はしていたのだが、やっぱり風邪をひいてしまった。毎年1月にやられる。
1月12日(金)に所用で仙台市へ行って寒さにやられてしまった。12日の夜は咳と高熱に苦しめられ、肺炎になるかな?(私は肺炎になりやすい)。と心配したが、買い置きの薬とアイスノンでなんとか凌ぐことができた。なにせ病院が嫌いで医者が嫌いなのだから痩せ我慢して苦しんで苦痛に耐えているしかない。悪寒と高熱のほかに咳、それから節や筋肉が痛んだ。 1月12日が早朝から雪だったので自宅からJR船岡駅まで徒歩で行った。15分位の距離だがいつもは自転車で行く。<良い運動になるぞ…。>と万歩計を腰に付けて家を出たのだが、結果は散ざんだった。仙台市内も歩き回ったので、その日の万歩計は8000歩を指していた。 命ひとつ探せしごとき山頭火(さんとうか)行乞の句は心魂打ちぬ 月曜日も布団に包まってはいたが、読書でもしようかと…という気持ちになった。というのは、俳人の山頭火の本をようやく見つけていたのである。繰り返して読みたい本は、家の一箇所に纒めてあるのだが、そこに無かった。探しあぐねていたところ、息子の部屋から出てきたのだ。 「放浪の俳人 山頭火・著者 村上護」発行所は講談社である。1988年8月25日が第1刷で1989年8月10日が第7刷。私はそれを購入した。約10年前に買ったものである。 昭和40年代の半ばごろに「山頭火ブーム」が起こった。話題になっている本を高甚本店(宮城県白石市)で求めた。他にも多くの著者による「山頭火○○○○○」とか「○○○○山頭火」という本が店内に沢山並んでいたのをおもいだす。一読して、すさまじい行乞の人生に驚き、晩年の自由律の句に感動した。短歌を作りはじめた今、あらためて読んでみたいとおもっていた。読後感が違うのではないか?…と。 この本は、山頭火の生誕から入寂(にゅうじゅく)までの生涯を丹念にたどり、詠んだ句を織り込んで編集してある。このエッセイを読んでいただく方のために、簡単に、種田山頭火の年譜を記しておく。 明治15年(1882年)山口県佐波郡佐波令村(現・防府市)に生まれる。父種田竹治郎(当時27歳)と母フサ(23歳)の長男である。正一と命名される。 村の大地主の子として生まれたのである。 明治37年(1904年)早稲田大学を神経衰弱のため退学。明治40年(1907年)父が酒造業を始める。明治42年(1909年)28歳で佐藤サキノと結婚。 明治44年(1911年)郷土文芸誌「青年」に参加する。「山頭火」の号で翻訳その他を発表。定形俳句も作る。 大正15年(1916年)酒造業の失敗などから種田家は破産。父竹治郎が行方不明になる。山頭火は妻子を連れて熊本市へ行き古書店(後には額縁店になる)を開く。屋号は「雅楽多」。大正9年(1920年)妻サキノと離婚。大正14年(1925年)44歳で出家得度し、熊本県植木町の観音堂の堂守となる。 大正15年(1926年)一鉢一笠の行乞放浪の旅に出る。昭和10年には新潟の良寛の遺跡をめぐり、山形、仙台を経て平泉まで行っている。昭和13年(1938年)体力が衰え、山口県湯田温泉に住居を求め「風来居」と名づける。昭和15年(1940年)一代句集「草木塔」刊。10月10日の午後、脳溢血で倒れ、10月11日午後4時に死亡。…となる。 この本は「第二章 行乞流転(ぎょうこつるてん)」からすさまじい人生と句を読むことになる。「すさまじい句」とは、私の心の奥に深く響きわたる句、あるいは突き刺さる句という意味である。大正15年6月17日、彼は熊本をあとにして九州行乞の旅に出た。6月22日、宮崎県の滝下までやってきて、私の好きな 分け入つても分け入つても青い山 の句を作る。自由律は荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の「層雲」に参加したことによって確立されていった。このころ世間では大正12年の関東大震災によって経済不況がはじまり、大正14年には普通選挙法が成立して満25歳以上の男子が衆議院議員の選挙権を持つようになった。 山頭火には、行乞の旅を経済的に支えてくれた俳友で医師の木村緑平(福岡県糸田在住・層雲派の俳人)がいる。山頭火は金に窮するたびごとに彼に支援を依頼している。節操がないように思うが、そもそも山頭火は私の常識などで括ることができない、私の許容量をはるかに超えている人物なのである。最後は木村緑平を頼りにするが、彼は村をめぐり、町を歩き回って托鉢(たくはつ)し、喜捨(きしゃ)を受けて生きてゆこうと懸命である。 それは、想像もできない難儀なことだったろう。雨の日もあれば雪の日もある。宿を探さなければ野宿もある。大木の下に蹲って夜を過ごすこともあるのだ。“孤独”などという言葉よりもっと“ひとり”だ。 “たったひとつの命”が山野をさすらう姿が浮かんできて心が痛くなる。 はてしなくさみだるる空がみちのく (仙台) ここまで来し水飲んで去る (平泉) てふてふひらひらいらかをこえた (永平寺) みんなかへる家はあるゆふべのゆきき (大阪) ふるさとはあの山なみの雪のかがやく (門司〜大阪への船の中) 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ (小郡) 鉄鉢の中へも霰 (芦野?) うしろすがたのしぐれてゆくか (飯塚) 笠へぽつとり椿だった(佐世保) まったく雲がない笠をぬぎ (阿蘇) 分け入つても分け入つても青い山 (滝下) 冬雨の石階をのぼるサンタマリア (大浦天主堂) このまま死んでしまうかも知れない土に寝る (高岡) 波音遠くなり近くなり余命いくばくぞ (宮崎〜飫肥への道筋で) 年とれば故郷こひしいつくづくぼうし(志市志〜都城への道筋で) 山頭火が行乞の旅で詠んだ代表的な句の中から、私が好きな句を選んでみた。この句の中に大正15年(1926年)〜昭和15年(1940年)まで14年間の山頭火の彷徨がある。 こう書くと、彼の晩年が行乞の明け暮ればかりだったとおもわれるかもしれないが、途中、各地で俳友の熱烈な歓迎を受けて馳走になったり、温泉に招待されたりもしている。仮寓も求めている。昭和15年、松山市の御幸寺の境内に庵住して「一草庵」と名付け、そこで生涯を閉じる。 風邪で体調の悪いときに読む本ではなかったかな?と度たびおもった。読み進んでゆくと、惨めな山頭火に嫌というほど出合う。家を捨て妻子を捨て一所不在の身となって彷徨(さまよ)いながら句作が醜悪に映る。だが、私が選んだ16句は、素晴らしいではないか。 年とれば故郷こひしいつくづくぼうし の句に、私は涙ぐむほど感動する。これは捨て身の一句である。自分に残っているものがなんにも無くなってしまって、この句が彼の心臓の音になっている。 その心臓も年老いているのだ。 文学を創造する者は、時として心が病むときや痛むとき、あるいは傷ついたり大切なものを失ったとき、陽より陰、豊饒よりも飢餓にあるときに、すばらしい音色を聞かせ美しい色づきを見せ、みごとな作品を結実させることがある。 それは不条理で非情でもあるが、事実である。 「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」 と山頭火は最晩年の日記に書いている。 まれの人生を無駄だったと悔いている俳人の残した句が私の心魂を打ち叩き、涙ぐむほど感動を与える。恐ろしいことである。 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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