NO-20

あたらしきカレンダー繰(く)り日本の四季はやばやと堪能したり

 今年の、わが家のカレンダーは、妻が所用で仙台市へ行った帰りに丸善仙台支店で購入してきたものである。妻の生家で毎年購入しているのを聞き、そのカレンダーも見てきて今年から購入することにした。
 3部求めてきた中で、茶の間には「美しい日本の風景」というのを掛けた。月毎に日本各地の風景写真が印刷してある。写真は縦35p×横42pで、その下に大きな数字で日付が印刷してある。1月は「富士山(山梨)」で、冠雪の富士がなだらかな裾野を引いている。手前に白く凍結した湖が有るのだが、本栖湖なのか精進湖か、あるいは西湖、河口湖、それとも山中湖かと考えたが、わからなかった。湖畔には宿泊施設らしい建物も写っている。
 2月は杉森の濃緑を背景に紅梅と白梅が野を染めている。「日の出町(東京)」が撮影地である。3月は「美瑛町(北海道)」の菜の花畑。広大な菜の花畑の遥か彼方に落葉松林があって、青い空にひつじ雲が浮いている。
4月は、私の原風景とも言える蔵王連峰の写真だ。「釜房湖より蔵王連峰(宮城)」との写真説明があって、画面の右半分は満開の桜の大樹。左の湖面の奥に蔵王連峰がある。私は、自分の住んでいる町から見ることができる白石川の桜並木と蔵王連峰の写真が好きなのだが、カレンダーの写真は大胆に桜の樹を画面に取り入れて春を強調し、蔵王連峰に春の訪れを告げている。
 6月は岩手山。7月の「中富良野町(北海道)」は、黄、白、赤、濃紺の名も知らない花が帯状に列をなして丘陵に消えてゆく。北海道は広大である。9月は「九重山(熊本)」のコスモス。10月は「涸沢(長野)」の色鮮やかな紅葉。11月は「小田代原(栃木)」の霜の野と落葉松。12が「小野川湖と吾妻連山(福島)」である。
 いま、私の弟(仙台市在住・音楽教師)が写真に凝っている。平成11年の河北写真展(河北新報社主催)で宮城県知事賞を受賞し、昨年は「第3回みちのくYOSAKOIまつり写真コンテスト」で大賞を受賞。「フジカラーコンテスト」ではグランプリを射止めた。宮城県知事賞受賞の写真を半切サイズにプリントして額に入れ、持参してくれたので玄関に飾ってある。
 秋の風景を16ミリの魚眼レンズで撮影したものである。たて位置の写真で周囲のケヤキの紅葉と野原の中央の真っ赤に染まったカエデ(高さ2m位)を強くデフォルメして撮影したものだ。ケヤキの紅葉が画面下のカエデの赤に収斂(しゅうれん)されるような力を感じる。
 平成11123日付の河北新報の紙上で入賞者の写真が発表されたが、選評は「…画面下ぎりぎりに真っ赤に紅葉した木を写し込んだフレーミングと、透明感のある光の扱いが素晴らしい。魚眼レンズは特殊なゆがみがあり、使い方が難しいが、上手に使いこなしている」となっている。
 ところで、その新聞に発表された入賞写真20点のうち、風景写真は2点しかなかった。残りは動感のある人物の写真だ。特選の河北賞も「祭りの娘」で「はねこ踊りの合間に休んでいる子供の純朴な表情を狙った。…」との撮影者の談話がある。総評で小説家の高橋克彦氏と写真家の熊切圭介氏が「…人間をモチーフにした作品に優れた作品が多かった。…風景写真は力不足という印象が残る。近ごろはハイビジョンテレビや映画などできれいな映像がいくらでも離れた場所で見られるため、美しい風景が感動の対象になりにくいのかもしれない。“風景の魔力”が落ちつつあるのか。…」と言っている。
 私も30年ほど前、広報紙の編集を担当し、写真に熱中した。そして「絵はがき」のような写真は良くない。と考えていた。それは@構図がありふれているAだれでもが撮影しそうな風景で感動がないBどこかで見たことがあるような風景である。…などなどの理由だっだ。
 しかし、カレンダーを見ていると、撮影場所の選択や季節(何月何日ごろが撮影に適しているか)天候や光の状態についてなど、その被写体を熟知していなければ、その土地に精通しなければ、日本の四季の写真は撮れないだろうとおもった。そして、レンズは肉眼の視界に近い標準レンズを使用しているのだ。現在の写真コンテストでは、カメラの機材の性能を、特にレンズの特殊な性能(望遠レンズ広角レンズ)を生かさなければ高得点は得られない。
 私は、絵はがきやカレンダーの写真にも感動的な風景があるようにおもえてきた。「…“風景の魔力”が落ちつつあるのか…」と新聞の総評にあったが、あるいは、写真の「美しい風景の魔力“を見失うつつあるのは、写真を見る側、つまり私たちなのではなかろうか?とおもいはじめている。



 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭