NO-12


比喩(ひゆ)ならべ修辞をしてもまとまらぬ火の見櫓(やぐら)はあまりにも短歌(うた)

 いつもの散策の道より一本北側の町道を行くと東北電力の船岡変電所がある。耳をすますと低い唸り声のような音がする。高い鉄柵の中には蟹(かに)がひっくり返ったような形の機器が10基ほどあり、コンテナのような巨大なトランスもあって、高圧送電線の鉄塔へ電線が何本も伸びている。私はこの変電所と鉄塔が好きで足をとめる。エネルギーが充満している感じが良い。
 変電所を後にすると、読売新聞の船岡専売所があって、朝刊を自転車に積んだ少年たちが明けはじめた街にとび出してゆく。朝のさわやかな印象をうけるときだ。
 それから水田地帯になる。98日の朝は、稲刈りが3分の1ぐらい終っていた。残っている田んぼの稲穂が垂れて、早い秋を感じさせる。稲穂の道を100mばかり東へ行くと、新田の集落が見えてくる。「カラオケの館うぐいす」の屋根や「やまいわ商店」の看板があって、そばに短歌に詠みたい火の見櫓がある。
 私にとって郷愁の風景である。
 この風景に出合うために、いつも一本北側の道を来たのである。
 私が小学校1年生のときに父が病死した。昭和21年のことである。弟が2人いて、母は衣類の行商をはじめた。戦後の物資不足でみんなが飢えていた頃のこと。母子家庭の子供がいかに空腹に過ごしていたか。書く気になれない過去である。
 春、夏、冬と、小学校が休みになると母の生家(角田市横倉)へ行った。休みが終わるまで厄介になった。中規模の農家で、毎日、腹いっぱいに食べさせてもらえることがうれしかった。
 祖父母に娘夫婦、嫁入前の娘に住みこみの手間取り(農作業の手伝い人)が2人。そこへ兄弟3人でおしかけた。
 当然、農作業の手伝いをさせられた。
 春休みは田んぼの代掻きと田植えの苗運びである。代掻きの動力は飼っている牛であった。「はんな取り」(鼻取りのことか?)といって、牛の鼻に2mばかりの棒を括りつけ、それを持って牛を誘導する。私はその棒を持たされた。膝までささる田んぼの中でのはんな取りは重労働だった。
 牛は後ろに犂(すき)を引く。祖父が操縦して田の土を掘り起こすのだ。
 掛け声は「ほーら待てよ」と「どうどうどうどう」である。
 「ほーら待てよ」は田んぼの角で牛を直角に方向に転換させるときの掛け声だ。が、牛は弓なりに歩いてしまう。田んぼの角の土を掘り起こすことができない。こんなときは、祖父の痛烈な罵声をあびた。それは、祖父が真剣に農作業に打ち込んでいたからのことだが、子供心には、つらいことだった。工夫と注意がたりないからいつまでも進歩しないと言う。
 祖父は厳格だが折り目正しい人で、食事は正座してとっていた。「どうどうどうどう」は牛の歩く速度で調整する掛け声である。
 台所の大きな水瓶(みずがめ)と五右衛門風呂の水汲みと風呂焚きも私たち兄弟の仕事であった。
 家は高台にあって井戸が深く、母屋から30m位は離れている。長い釣瓶(つるべ)を落としてやっと汲み上げても、水は釣瓶の半分しか入っていない。汗を流して水を汲み運んだ。
 蚕(かいこ)に食べさせる桑つみもした。それでも毎日が楽しかった。自分なりに農作業を手伝っているのだという、充実した気持ちがあった。末の弟は「チャッポン釣り」が得意で夕方になると裏の川へ行ってナマズを釣ってくる。
 竹竿の先に30pばかりの糸を付け、釣針を結ぶ。エサは小さなカエルである。これを水草の回りに垂らし、カエルが水面で遊んでいるように見せる。「チャッポン、チャッポン」とやるのだ。すると、ナマズがガブッと食い付いてくる。23尾のナマズを釣ってくる弟を祖父は大喜びで迎えた。囲炉裏の火で焼き、味噌をまぶして晩酌をはじめるのだった。
 母の生家へは船岡駅から国鉄バスに乗って角田市の佐倉バス停で降りた。約30分で着く。大きな病院があって、そのわきの砂利道を1.5qばかり西へ歩いてゆく。広々した水田の中の一本道である。天気が良い日は遠く蔵王連峰が望めた。
 その道のはるか正面に火に見櫓があった。電信柱を利用したのか、防腐剤で黒く塗られた太い柱が2本立っていて梯子状に横木が打ちつけてある。
 天辺に半鐘が下がっていた。
 私たち兄弟は、まず、この火の見櫓をめざして歩いた。小学生の足には遠かった。歩いても歩いても近づかない。ようやく櫓の下へ着くと南に道を折れて500mばかり里山ぞいに行く。そして母の生家へ辿りついた。
 私にとって、火の見櫓は少年期を思い出させる道標なのである。
 朝の散策のたびに目にする火の見櫓は「新田コミュニティ消防センター」の裏に立っている。
 このセンターだが、4トンのトラック1台を入れる車庫ぐらいの大きさである。中には可搬動力ポンプが格納されているのであろう。建物の奥には小さな部屋があって、ガラス戸ごしに流し台も見える。歩測してみると、間口が約4m、奥行き約11mの建物である。赤色灯の下に「新田コミュニティ消防センター」と立派な看板が掲げてある。が「柴田町新田分団詰所」ではいけないのか、と疑問がわく。「コミュニティ」「センター」も、この建物にはふさわしくないと思うのだ。
 この火の見櫓は鉄骨作りの頑丈なもので、三本の鉄骨に斜交(はすか)いた鉄骨が組み合わせてある。
 私が右手を伸ばすと足元から指先までが210pになる。これを基準にすると、櫓の高さは約15mある。その上に円い足場があって半鐘が下がっている。
 このように、遠くから眺め、近くで計測し、少年の日の思い出を絡めても短歌にできないのである。
 いまは、火災が発生しても火の見櫓の半鐘が打ち鳴らされることは無い。鎮火のあとで、濡れたホースの物干しに利用されるぐらいである。
 私には、物干しになった火の見櫓を短歌に詠むことはできない。可哀想なのだ。
 少年の日から私の中にあって、あまりにも短歌的な火の見櫓が、これからどうなるのか。予測できないでいる。

 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。

柴田町船岡在住・渡辺 信昭