NO-7

母呼ばう童子(わらし)のごとく朝霧に郭公(かっこう)鳴きて立ち止まりけり

 郭公を見て感動した。あの透徹な鳴声の主に出会ったのだ。619日(月)の朝、いつもの散策の帰り道、集会所の脇道へ出て「風見鶏」という美容室へ抜ける通りの角、電柱の天辺で鳴いていた。距離にして10m位。小鳩ぐらいの鳥である。「カッコー、カッコー」と透き通る声は、朝霧に沁みてゆくようであった。
 周囲が里山の町に育って、今更郭公を始めて見た、などとは、おかしな話かもしれないが「これが郭公だ」と注目したのは始めてだった。尾が長く、胸は薄い灰色で、胸を横切るように細い縞の模様のようなものがある。背も濃い灰色であった。
 動けばすぐに飛び立ってしまいそうで、45分、立ち止まって見ていた。
 「カッコー、カッコー、カッコー、カッコー」と4回鳴くのが1フレーズらしい。1フレーズ鳴くと少し間を置いて鳴きはじめる。「囀る」ではなく「鳴く」あるいは「啼く」と書くのがふさわしい鳥である。
 この郭公だが、巣作りをせず雌鳥がヨシキリやホオジロ、モズなどの巣に卵を産みつける。(託卵という。)
 そして、その親鳥(仮親)に子育てをさせるのだ(鳥類の図鑑・小学館による)卵が11日位で孵化(ふか)すると、また凄いことをする。郭公のヒナが親鳥の卵を巣の外に突き落すのである。このシーンをテレビの番組で見たことがあったが、残酷なことをするものだと思った。親鳥は郭公の子とも知らずに、わが子可愛いさで懸命に育てる。ケムシや昆虫を銜えてきては与え続けていた。
 成鳥になった郭公の声のどこにでも残酷さなどはひそんでいない。郭公は託卵して子孫を残すしか、この世に生命を存続させる方途を知らないのである。
 これを残酷と思う私が、自然界の生命についての認識があまいのだろう。
 おもえば、人間こそ地球上の如何なる生物よりも残酷であり続けている。
 あと、ひと月半で終戦記念日である。そして巷では、刺し殺し、焼き殺し、叩き殺して毒殺もする。不条理な殺人が日常茶飯事になっている。
 郭公は天に恥じることなど、なにひとつ無いのである。

バイパスの壁に夜叉書き参上すと暴走族の碌(ろく)でなしめが

 所用で仙台に行くたびに憂鬱になる。いやな用件のためではなく、落書きが原因なのだ。私は東北本線の船岡駅を利用しているが、駅までの途中、旧国道4合線からバイパスに通じる大通りがあり、白石川に橋が架かっている。
 この橋までのコンクリートの壁に下手くその「夜叉」が書いてある。黒のカラー・スプレーで、私の背丈ぐらいの大きさだから180pはあるものだ。「初代金狼」「殺戮……」などとの殴り書きもある。
 電車に乗ると、岩沼駅近くの陸橋の下やサッポロビールの工場の塀にもある。
 先日は長町駅で下車し、地下鉄に乗り換えて終点の富沢駅まで行っていたが、そばを流れる笊(ざる)川の護岸の壁にも猥褻(わいせつ)極まりない落書きがあった。不快そのものであった。
 この全てが暴走族の仕業とは言えないだろうが「初代金狼」については彼等のものであろう。
 一度、町内を暴走する若者たちに出合ったことがある。乗用車2台にバイクが2台だった。乗車から身を乗り出して奇声を発する者、排気音のすさまじさ、蛇行運転するバイクと、この若者たちに恐怖を感じた。これが30人〜40人となった暴走をテレビで見たが、彼等はスリルを楽しんでいるかのようにさえ見えた。
 この若者たちは、何のために暴走するのだろうか?。
 社会に対するレジスタンスか?。そんな高尚なものではあるまい。弱虫が徒党を組み、ようやく日ごろの鬱屈を晴らしているだけのことであろう。
 そして、俺達が恵まれないのは、親や学校、社会が悪いのだと屁理屈をならべているのだろう。
 ただ、今日の社会で病的に暴走する若者が増加しているのも確かなことである。病的な暴走や暴力には、社会を律する善悪のルールは通用しない。
 現代社会が孕(はら)んでいる病巣の中に多くの若者たちがいるのだ、と考えると、この短歌は意味を無くすのだが………。


 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。
柴田町船岡在住・渡辺 信昭