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真裸の新緑くぐってゆくような昼の電車の先頭車両にいる

 東北本線の仙台駅で各駅停車の上りの電車に乗ると15分ぐらいで名取駅に着く。この駅を出発してから次の岩沼駅、槻木駅、そして私が下車する船岡駅までの鉄道線路の周囲は新緑にあふれている。
 電車は名取耕土とよばれている広い水田地帯を走る。5月連休を中心に植えられた苗は15cmぐらいに成長した。水田の色は青だ。五月晴れの天の青を田の面が映して強く青を感じさせるのか「これは青なんだ」と意気ごんで自分に言う。そして納得する。
 私は所用で月に2〜3回仙台に行き、昼ごろの電車でこの風景の中を帰宅する。電車では先頭車両の運転手のすぐ後ろに立って、新緑に突っこんでゆくような風景の流れに乗る。線路もいい。平行な二本の鉄路が直線にあるいは緩勾配にカーブして、どこまでも続いている。私は自分を感覚的な人間だとおもっている。論理的な思案や認識が苦手である。「この鉄路にたとえて人生を考えてみる」ことなど、とてもできないタイプの人間である。物事の判断は、好きか嫌いか、良い気持になるか、嫌なおもいをしなければならないか…で判断することが多い。
 電車の左右に流れる新緑からは幼児の体温に触れたときのような、真裸の幼児を抱きしめたときのような感覚をおぼえる。
 あるいは自分が幼児にもどって新緑に抱かれているのかもしれない。そして新緑には希望のにおいがある。目の前が開けてゆく少年のにおいだ。
 子どものころ、5月になると、みんなで太陽を見つめる遊びをした。太陽を直視して何秒間目を開けていられるかを競う遊びだった。なんとも目に悪いことをしたものだ。
 5秒ぐらいが限度だった。「1,2,3,4,5」と数えるぐらいで瞼が閉じた。目が反射的に危険を感じて瞼を閉じさせるのだろう。再び目を開くと周囲の風景が白っぽく変わっていた。足もよろめく。お日様はたいへんな力を持っている神様だとおもった。左右に流れていく新緑は、あのときの白っぽい風景に淡い緑で色づけしたような緑なのだ。
 強くはお薦めできないが、一度太陽を直視していただくと、この感覚がおわかりいただけると思う。
 青田のはるかに霞む里山は楢(なら)や櫟(くぬぎ)山漆(やまうるし)や山桜などの雑木林と杉山が続いている。
 この里山のふもとには、水難の神様として漁師たちの信仰をあつめる金蛇水神社がある。神社の牡丹は薄紅や紫、白や真赤、あるいはピンク色に咲いて私を圧倒するほどの色どりであった。また池の端の藤の花は息ぐるしくなるほどに花房をしだれさせている。
 長子が運転の車で神社を訪ねたのは4〜5年も前のことだったろうか…。などと考えているうちに電車は阿武隈川の支流、白石川の鉄橋を渡る。西の空に蔵王連峰がそびえている。さて、下車の用意をしようかと、網棚の荷物に手を伸ばす。

切妻の軒(のき)に巣作る雀の雛(こ)薄明食(は)みてなきはじめたり

 隣家の軒先で早朝から雀の雛が鳴きはじめる。私は週に1〜2回朝の散歩に行く。4時30分には家を出るが。その時間には、もう、やかましいほどである。親鳥に空腹を告げているのだろうが、貧欲な声は囀るではなく騒ぎたてているという感じだ。親鳥はピストン輸送のように虫をくわえて来きては屋根にもぐりこんでゆく。
 隣家には雀の敵の黒猫がいる。古株の雌猫で子猫のときに不妊手術をされてしまった可哀想な猫である。恋を実らすことのできないストレスで食いまくっているのか相当の肥満だ。
 NHKの連続テレビ小説「私の青空」がはじまる頃にわが家の庭を横切ってゆく。「今から、労働に行くのよ」という雰囲気で歩いてゆく。その労働だが、余所の家の台所を漁るらしい。わが家の玄関や台所の戸を難無く開ける悪知恵の持ち主だ。妻が買ってきたばかりの食パンを袋ごと持ち逃げされて地団駄踏んだこともある。
 この猫が屋根の巣のある瓦の上をうろつく。巣の在処がわかっていて、できることなら雛を取って食べようというのだが、瓦を剥ぐこともできず、肥満の体では瓦の下へもぐりこむこともできない。捨て台詞のような啼き声を雛に聞かせて去ってゆく。雛は猫が去るまで声も無くいるが、電線で見守る親鳥がたいへんな騒ぎだ。
 雀は一腹で5〜6卵を産み、抱卵は雌雄交たいで行う。11〜12日でふ化するので、いま育っている雛は五月の連休あたりに産んだ卵がかえったものだ。
 ところで、ここ3〜4年、隣家の屋根の同じ場所に雀が巣を作っている。ということは、親鳥はいつも番(つが)いで生活していて繁殖期になるとこの屋根で子育てするのだろうか?…。あるいは以前にこの巣で育った雛鳥が成鳥になり、自分が育った巣に帰って雛を育てるのだろう?。それとも、この春に偶然に恋をした雌雄の雀が、これも偶然にこの屋根のこの場所を愛の巣に選んだのだろうか?…。
 いま、こんな疑問を持ちながら、やかましい雛の声を聞いている。まもなく、嘴(くちばし)の黄色な子雀が、雨樋まで出てきて、親鳥がくわえてくる餌を待ったシーンが見られるようになる。
 わたしは昨年と同じカップルが今年も子育てをしているのだとおもうほうが夢が有りそうだとおもうが、あなたはどうです?…。


 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
 短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。

柴田町船岡在住・渡辺 信昭