わたしの菩提寺は、妙高山大光寺という。家から自転車で10分位の距離にあって、ひと山が墓地でお堂はふもとに建っている。檀家約900戸のこの地方では大きなお寺である。いま、銀杏の大樹のつややかな若葉が円錐形に繁って、遠くからは青い尖塔が立っているようである。
この寺には裏山を抉って作った岩窟がある。物置小屋など、すっぽり納まってしまう位の広さがある。中に500体の羅漢さまが祀られている。残念だか風化がひどく顔がほとんど崩れてしまった30cmばかりの座像である。 1771年(明和8年)この村に疫病が大流行し、多くの子どもが亡くなった。同寺の13世、環中道一和尚が疫病の平癒を祈願してこの羅漢さまを彫ったのだという。 衆生を救済しようという和尚さまの願いが今も羅漢さまに宿っているのである。ありがたいこである。 わたしが子供のころは、お寺や墓地が遊び場であった。近所の子供たちが群れて遊んだ。餓鬼大将がいて、統制のとれた集団が山や川やお寺に出没した。 その日はお寺で「隠れんぼう」をした。わたしは一人で岩窟にかくれた。羅漢さまのわきで膝をかかえて鬼に見つからないようにしていた。墓地やお寺の周囲には、隠れるところがたくさんある。鬼になった子は、やきになって仲間を捜したことだろう。わたしは岩窟に20分はひそんでいたように思う。そして、一体一体と羅漢さまを眺めていた。風化した羅漢さまの顔は判別しにくかったがにこやかな童顔であった。わたしは羅漢さまに親しみをおぼえた。 この短歌は、そのときの印象を詠んだものである。墓参にしばしばお寺に行っているのに、羅漢さまを拝むことも無いままに過ごしてきた。次の墓参には、ゆっくりと羅漢さまにお会いしたいとおもっている。
わたしの祖先は、宮城県伊具郡の藤尾村で農業を営んでいた。田畑は二町歩、山林も所有して、その地方では大きな農家であった。
わたしの曽祖父は農業のかたわらうどん屋を経営していた。 当時、宮城県伊具郡から海沿いの亘理郡へ行くには、阿武隈川を渡り、藤尾村の街道を抜けて阿武隈山脈を越えるのであった。 海沿いの部落から山を越えてきた人、これから山を越えようとする人たちは曽祖父の打ったうどんで腹をみたし、元気をとりもどして、また歩きはじめたのであろう。店はかなりの繁盛だったと聞く。 昭和9年、一人息子の父は農業を捨て、うどん屋の家屋も売り払って福島県の常磐炭鉱の事務員になった。生来、病弱だった父には、農業経営が無理だったのだろうか…。不遜な考えかも知れないが、当時は小作制度があったのだから、田畑を小作人にお願いしても農業は続けることができたように思うが、故郷を捨てるように藤尾村を去った。常磐炭鉱から現在わたしが住んでいる柴田町へ移住して発病し、昭和21年、わたしが小学校1年生のときに病死した。 戦後、GHQの農地解放策によって不在地主の田畑は没収された。わたしの家も補償金としてわずかなお金をもらったが姉二人が発病し、治療費に消えた。 麦押(むぎおし)は、うどん粉を練って伸ばすときに使用する樫(かし)の丸い棒のことである。この麦押が子供のころに家に残っていた。遊び道具には最適だった。だが、その棒で曽祖父が汗を流してうどんを打っていたことを、わたしは識らずにいた。 父がなぜ故郷を捨てたのか、祖母も母も語ろうとしなかったし親族に理由を確かめたが、真意はわからないでいる。謎のままにしておくことが、父の供養になるのではないか、とも思いはじめているこのごろである。 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
|