わが家から東に200mばかりの所に三角公園がある。200坪ばかりの広場で、地形が三角形なのでこの名称になったらしい。中央に区画整理事業の記念碑が建っているが、難解な文章なので、読むのをあきらめた。ベンチが置かれてるわけでもなく染井吉野が5本、碑の周囲にあるだけである。樹齢は50年ぐらいで壮年の木である。4月15日には5分咲にはなっているだろう。
壮年のさくらは紅色が濃いようにおもう。この5本の花は特に紅色が濃いようだ。 花は梢から咲きだす。ぽっと花を付けたかとおもうと、たちまち下へ下へと花が降りてくる。紅色の花が樹木をおおいつくすように咲き下ってくるのだ。三日間で満開になる。 下に立つと明るい春の空に咲く壮年のさくら花の存在感に圧倒される。 この公園は私立幼稚園のバスの待合い場所になっていて、午前8時30分に迎えのバスが、午後3時30分ごろ送りのバスが来る。 柔らかに紅色に咲きみちたさくら花の下で子どもを送る母親。午後の強くなった日ざしで白ずんで見える花の下で待つ母親にバスを降りた子どもが飛びつくさま。 さくら花の豊色な情緒もいいが、ちっぽけな三角公園の空も風も花も人間もひとつになった生命の輝きは、もっといい。あと数日、この光景を目にすることができる。
4月18日は、この町の鎮守の祭礼の日である。町じゅうの桜が満開になる日の祭礼は趣がふかい。赤飯をたき、焼いたニシンを食べる習わしがあって鰊(かど)祭りともいわれている。魚屋では焼いたニシンがよく売れる。
わたしが小学生のころは学校も休みになって、神社から繰り出してくる神輿(みこし)の後を付いて歩くのが楽しみだった。 白装束の担ぎ手(満20歳になる若者が担ぎ手になった)は、町内を練り歩くうちに御神酒に酔い、午後になると足取りが覚束無くなってくる。神社に戻る直前にさくらが満開の船岡城址公園へ登るのだが、急な坂道で四苦八苦し、周囲を見守っている消防団員が手伝って、やっとこさ、と坂を登りきる。 その様子を胸をわくわくさせて見ていた。 ところが、今は担ぎ手が無く神輿はトラックの荷台に乗って町内を回っている。 10数年ばかり前、わたしも発起人になって船岡祭友会という担ぎ手の会を作った。地元の大学生の協力も得て4〜5年は神輿の御渡を会員で行った。自分が子どものときに見た神輿渡御を子どもたちに見せてやりたかったのである。が、船岡祭友会の活動が心もとなくなってきた。わたしも引退してしまったので、無責任には言えないが、担ぎ手の高齢化、経費の問題(100名を越す担ぎ手の食費、慰労会費など)リーダーの交替、神社関係者とのコミュニケーションの問題などがあると聞く。 鎮守の神輿は今年もさびしそうにトラックに乗ってやってきそうである。 三十一音の韻律の文学の魅力にはまって三年になる。平成11年上期の河北歌壇賞(河北新報社・佐藤通雅選)を受賞した。
短歌を勉強すればするほど、類形的でまとまりすぎて新鮮味がなくなった。表現が古めかしくて色褪せてきた…などと言われるようになった。むずかしいものである。「歌は人である」と言われるが、色褪せた自分にどんな春の彩りをそえて旬の短歌を作ろうか…と考えている。 柴田町船岡在住・渡辺 信昭
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