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                  千葉県松戸市から


 

 桜の燃えるような紅葉で、四季の締めくくりを飾り後を追い、銀杏、楓、もみじが競い合うように色づき輝き、落葉している。今は重なった色とりどりの落ち葉が地表を彩り、ハラハラと残りの葉が散る風情が物悲しいです。
 柴田町の郷土館で故小室達の写真が展示されていることを母と話し、写真にまつわる小室達との思い出がよみがえりました。子供のころ部屋の鴨居に、セーラー服の幼い兄が机に向かって手習い中、母が背後から手を添えている、母子像とも言いたい大きな写真が飾ってありました。黒い台紙のアルバムには昭和10年〜20年代の家族の記念写真の中に、確かに芸術家の目を通して写されたものもありました。
 初冬の寒い日、入間田の蔵の前で、私はカメラの前に立っていました。写真という不慣れなことへの緊張か向かい合う人への緊張か、堅くなって寒さに鼻水が落ちることを気にしながら写されてありました。風で顔にかかる髪と真剣な堅い表情が、寒く冷たく寂寥感のある冬の空気まで写し出しておりました。その時の情景まで想いだせる大切な私の写真の中の写真になっております。
 仏壇にほぼ真横顔の小室達の写真があり、遺影にしては不思議な感じを抱いておりましたが、あの自画像の写真も自ら写し現像していたことを知ると、非凡な視点と思えるのです。戦争の前後、彫刻家としての制作が制限され、写真とか陶器に目を向けたのかもしれないと想像しています。
 写真とは別に、遠い記憶の中に小室達のアトリエの裏の竹薮だったのか、入間田の裏山だったのか、習作の石膏の人物のカケラ等があって、心臓がドキンとしたことがありました。お絵かきが好きな幼い私に「大きくなったら、おんちゃんちにくるかい」と言われた言葉が忘れられない。
 小室達は53歳で亡くなりました。私はすでにその歳を超えて思うのですが、戦後の自由な気風の中で制作できていたら、あるいは、ほぼ同期の小磯良平氏や猪熊弦一郎氏ほど長命であったら…と無念に思うのです。凡人ばかりの一族の中で、ただ一人、足跡を残す芸術家になった小室達もやがて、誰の記憶からも消えてしまうのです。それでも作品は行き続け。永遠の命となった作者自身が姿を変えているのかもしれません。
 春の桜の花、夏の青葉、秋の紅葉、冬木立からの夕日等々、毎年毎年繰り返される年数の中を生き続ける正宗像は、小室達が永遠に生き続けている証かとおもうのです。